<242>

 窺われさえしなければ不快な気が起こらなかったのに、と思うことは多い。また、窺って不快にさせてしまうことも。以前、こういうところが欠点だと当人から打ち明けられると、そんなところ今まで気にも留めていなかったのに、なんだかそこがその人のどうしようもない欠点のように感じられてきてガッカリしてしまう、ということが起こると書いたのだが、それにも似ている。窺うという行為はどうしてこうも不快に結びついているのだろうか。

「ねえ、大丈夫だった?」

「もう気にしてない?」

「この間のことだけどさあ・・・ねえ・・・」

など、訊かれただけでこんなに嫌な気持ちになるのも不思議だと思うのだが(善意で訊いてくれていることもあるのだから)、嫌になってしまうのだから仕方がない。

 これもその、欠点の例と同じで、訊かれないうちは全然大丈夫だったり、何なら、もうひとりでそれについては処理し終わったような感覚になっていたりさえするのだ。そしてそれは強がりではなく、その後何にも窺われなければ、おそらく耐えるという感じもないままに、物事が本当に自分の中で解決されて、そのまま過ぎてしまうだろうという気がする。蒸し返される感じがして嫌なのか、その表情が(善意の顔にしろ悪意の顔にしろ)嫌なのか、解決されようとしているところに介入されるうるささなのか、はたまた全然関係のない理由に拠るのか・・・。

<241>

 余韻を長く感じられる身体が形成されていくにつれ、長時間の観賞にも堪えられるようになっていく。これにはやはり時間がかかって、個人差こそあれど、年配の人の方が長時間の観賞に比較的向いているのもこのためであるかと思われる。

 というのも、綺麗さを掴む感覚、

「あっ綺麗だ」

と分かる感覚というのは、自己の経験に照らすと、幼い頃から今まであまり変わらない気がするからなのだ。例えば夕日を見て、

「ああ、綺麗だ・・・」

と感じるところまでは多分あまり年齢に差がない。そこから、その場に長く佇んでいられるかどうかは、身体が余韻を内包している程度に関係してくるのだと思われる。ただ、極端に幼ければ余韻を感じられないかと言えばそんなことはなく、泣いているかと思えば笑い、笑ったかと思えば食べ、食べていたかと思えばいつの間にか寝てしまう赤ん坊でさえ、何かにうっとりとしているような時間を持つことがある。つまり、長時間観賞に向いているような身体というのは、余韻の長さというより、余韻に浸れる頻度の高さを獲得したものなのだと言えるかもしれない。

<240>

 絶対的におかしな人はいない。おかしさはいつも相対的である。何かある、ちょっと変なところを見つけると、

「あの人はおかしいんだよ」

とすぐ切り捨てる(親しみを込めての「お前おかしいなあー」ではなく)人がいるが、そういうのを聞くのが嫌で、何故そういうことを言うのかと思って考えていたのだが、それは、おかしさがどこまで行っても相対的だからだ。つまり、絶対的なおかしさがない以上、常に誰か周りの人間をおかしいと認定し続ける必要があるということだ、自分を普通だと思い込むためには。

 別に、相対的なものの揺れで、時々おかしいと言われようが普通だと言われようが、そんなことはどうでもいいだろうが、と私は思うのだが、どうでもよくないからこそ、常に周りをおかしいと言い続けるのだろう、また、言い続けなければいられなくなっているのだろう。普通である、私はおかしくない、という安心を狂ったように追い求めている、絶対的な普通さなどないからこそ余計にその衝動は強烈になる。

<239>

 何回も何回も既に見たところを通らなくていいよ、だってもう憶えているから・・・。不思議なことに、一言一句憶えていなくとも(それが為に何度も戻るのだから)、憶えていると感じるのだ。それは何を憶えたのだ? 感じか、ニュアンスか。つまり、内容を憶えた、というよりぼんやりと把握した、それで例えば物語を読む場合はOKなのであって、というかOKとしないと、全部を頭に入れつつ(それこそ一言一句)先に進まなければいけないのでしんどい。それに、そんなことは不可能だ。だから何度も戻る羽目になる。内容はもうなんとなく把握しているんだからそんなに何回も見なくていいよ・・・。

 これは、音楽を聴けるということと同じ、これが苦もなく出来れば、また物語も読める。流れていったものをいつまでもくっきりさせたままにしようとしないで、残響として処理すればいい。流れていったもの、今現在捉えているもの、これから流れてくるもの、こういうものを難なく繋げる(繋げなければ物語など読めない)ということに、ひとたび疑問が投じられると、もうまた何度も何度も戻ることになり、困難が大きくなる。

<238>

 自分がのめっていったのは、それにのめっていくことの効用を先に知っていたからではないだろう。のめっていかない人に対し、だからその効用を説いたりするのはちぐはぐなことだし、自分がのめっている対象にもそれは失礼なことになる。そんな、これにのめるとどんないいことがあってとか、こういう効果があってとかいうことを確かめて、一応の安心を得た上で・・・なんてケチな仕方で好きになった訳ではないだろう。言わば、巻き込まれるようにしてズルズルと引っ張られていったのだ。つまり、優位は対象の方にあって、自分が何かのめっていくための工夫をした訳ではない。引っ張られていったということを率直に語ればそれでいいのである。のめらない人を、自分の説き方次第で無理やりにでものめる方向へ持っていこうと考えること自体がもうケチなことである。

<237>

 格上の相手に対して接近した戦いを繰り広げ、しかしあと一歩というところで格上の相手が違いを見せつけ、踏ん張ると、さすがに気持ちが強いですねえ、そこの差がこういった場面で出てしまいます、と言う、本当にそうか? 単純に実力の差が細部で出ただけではないのか。単純に実力の差だと言ってしまえば元も子もない、気持ちの強さ弱さなのだと考えていれば、気の持ちようでこれから先どうにかなると思える・・・。しかし、それだけ張りつめた展開で、気持ちを強く持ってさえいれば形勢を逆転できるほど、勝負事の世界は甘くないと思う。単純な、それこそ元も子もない実力の差が、そういう最後のところの少しの差を分けるのではないか。そういうところでこそ地力が物を言うのではないか。むろん、気持ちが弱くて(前にも言ったように、気持ちの強さ弱さなどという物言い自体が随分曖昧なものであると思うのだが)いいという訳ではないと思うが、それがメインではないと思う。

<236>

 俺にはこれなんだ、と決めてぐいと踏み込むとき、良いか悪いかは別として、そこにはごまかしがある。では、踏み込まないで、いつまでも不決定の状態に在り、動かないでいることの中にはごまかしがないかと言えばそんなことはなく、それもそれでまたごまかしである。そして、それら現れを遠くで見ていて、どうしようもなくなったとばかりヘラヘラ笑っているのも、当然ごまかしである(ヘラヘラ笑っているのがごまかしでなくて何であろう)。というよりそれはごまかしそのものである。私がいつもヘラヘラしているとすれば、それはきっと、そのものが好きだからなのだろうか。

 だから、決める人が決めない人を責めたり、決めない人が決める人を嘲ったり、ヘラヘラしている人が諸々を脱したかのようなつもりになっているのを見たときにいつも感じるのは、不快とか不満ではなく、違和感だ。全部同じ状態ではないか。快活即倦怠、倦怠即快活だということを以前書いたが、それと同じである、というかそれである。つまり、それらの態度の間に何かしらの差があると思っているからこそ、他の態度を否定する動きが出てくるのだと思うのだが、決めるのも決めないのもヘラヘラしているのも同じことなのだ。そこには確かに辛さもあるのだろうが、いつも私が感じるのは、事に当たって何かを決めるときの楽さ、決めないときの楽さ、そこから距離を置いてヘラヘラしていることの楽さである。