<336>

 遊び(遊戯から、余裕などのことまで含める)を取り戻すということにも当然興味があるのだが、遊びが失われていく過程、失われていくこと自体にも興味がある。ふざけているだけでは駄目かもしれないが、遊びがなければ物事は硬直してしまい、上手くいかなくなる。しかし、意図せずして真剣な努力は、知らず知らずのうちに遊びを追い出してしまうことがある。遊びをなくすように動いているつもりはないのだが、方々で詰めていくうちに、気がついたら遊びの領域が全くなくなっているようなことになるのだ。

 まず初めに、遊びでしかない時期があり、しばらくすると、法則に縛られるのか、秩序立てていかないことにはその先がないからなのか、急激に遊びの領域が狭くなる。そしてそこを突き抜けた先にはまた、遊びが拡がっている。この、開いて閉じてまた開く運動は、必然なのか、つまり開きっぱなしではダメなのかどうか、ということだ。一旦、必要があって閉じているようにも思えるし、ただただ圧倒されて硬直してしまっただけのようにも見える。いずれにしろ、ただ遊びであった時期はともかく、組み立ててガチガチになっているところへ、あえてまた遊びを入れることの困難は相当なものになっていると言える。突き詰めるということがまず、遊ばないということと密接だからだ。

<335>

 何かを学ぶとき、ひとつの本で済ませようとしてはダメだ、というのは、別に怠けているからだとか、ケチだからとかそういうことではなく、連関させないと物事はよく見えてこないということなのだ。あっ、ここで今見ているのは前にあっちで見たあのことか。あっ、そっちで見ていたことが、ここでいうところのあれなのか、というように、あちこちに新たな点が増えていってそれが繋がることによって物事の姿はよくよく見えてくるようになっているので、ひとつだけでその対象をよく見てやろうとしても、それでは対象の姿はぼんやりしたままだし、どこからどこまでが範囲内なのか、形がどのようであるかなどがよく分からないままということになる。バラバラの点を結んで何かを理解出来るということは、つまりそこに何がしかの中心があるということだが、中心の中に特別何かがある訳ではない。とっくに忘れていたと思った事柄が、他の同じような物事に触れることで突然記憶に甦ってきて驚いたりもするが、とにもかくにも点は多い方がいいと思うのである。分かるとは連関だ。

<334>

 心地良さと心地悪さが速やかに入れ替わって渋滞を作らない。何かが通り過ぎた感触と、興味のなさそうな風が流れ、捉えられたものを放り出す。いつまでも立っていてもいいが、そこには何も、本当に何もない。仕方なく、心地良さの痕跡だけを辿ろうとするが、反対のものとあまりにも密接で、それもあまり上手くいかないのだ。当然の如く晴れ、しかし何かしらの重さがあり、末尾に対しての警戒心は募る。焦るな、焦るなという囁きをよそに、一層の努力と出鱈目が起こり、場所を奪い合い譲り合いしいしい、不透明な空間をいやらしい熱で満たす。

 要請不可能な曲がり道、触れてひやりとし、またわけもなくざらざらと・・・。休憩においてひと唸りする風は、渋滞解消の原因であることを知らぬ振りしつつ、強くなったり弱くなったりしてみる。

<333>

 偉いねえと言われる立場にいることにも、言われない立場にいることにも、同じだけのずるさがあって、それをお互いで承知しているから、立場の違った者同士で会ってもただヘラヘラし、ごまかし、お茶を濁すだけなのだが、どちらかの立場にいればずるくないと思っている人がいる。ずるくないと思っているからこそ、その立場を択んでいる人がいる。そうすると、当然の如くずるいという責め方をしてくる。お互い様であるということが分からないと厄介だ。そうかい、あなたはずるくないのかい、結構なことだよ、ねえ・・・。ヘラヘラしないということは、ある意味コミュニケーションを取る用意があるということだ。ずるいと一言二言やらないと終わらない、それまではヘラヘラしないという姿勢か。どこの視点からものが語られているのだ。ずるさと無縁の地点を見たことがない。占めていると信じているその場所は本当にその場所そのものか。よく見ると、左右逆であったり、形は同じでも中身が違ったりしないか。玄関だけ同じ姿であれば、同じ家なのだという主張は面白い。聞いてなかったのだが。

<332>

賭博なんかに手を出して・・・破滅するぞ、と言うその気持ちも分からないではないが、というより、そう言うしかない部分もあるのだが、破滅を目指すから賭けに身を投じるのであって、そこへ来て破滅するぞという警告があっても何の音にもなっていない可能性が高い。どうしようもなく壊したい、どうしようもなく破れたいというエネルギーに、破滅するという注意はいくらか拍子抜けなものとして現れる。故に、破滅しに行きたいのはどうしてなのかが問われなければならない。まあ、問うたところで、破滅したいという願いは割合に根が深いものであるからどうしようもないといえばどうしようもないのだが、どうしてそこまで破滅したいのかということを当人が考えて、それによって結局やめるようなところまでいければ、それに越したことはないのもまた事実だ。しかし、破滅したいという願望自体はなかなかに普遍的なものであっても、その強さには結構な差があるというか、実行に移すか移さないかというところに意外に高い壁が立っているから、先述した通りどうしようもないといえばどうしようもない。

<331>

 壊れていくものである、ということをどう捉えるのか。故に何かをすることを放棄するというのもひとつの態度であって、正解とか間違いとかではないが、壊れていくものである、それはそれとして別に何かをしていくというのもまた、ひとつの態度である。次へのバトンタッチだ希望だ、そんなものは一切関係のないところで何かをしていく、壊れるのだよ? そう、そのことを拒否する訳ではない、知らない訳でもない。しかし、腹が減れば飯を食う、その動きに何の不自然もないように、壊れていくものである、そうそうしかしそれはそれとして何かをしていくというのもまた、ごく自然なことなのだ。

<330>

 ああ、鈍さの接近。鈍くなるのに時を要しなかった。簡単だった。してやったりな訳でもないのだが、外側の言語に、異国の言葉ではないのだが外側の言語に囲まれ、流れ方もそのようだ。

 私は話すことを失ったのだろうか(失ったのだろう)。そう、外側の言語で話すことは失ったのだ。薄い壁(いや、膜でもいいのだが)を隔てて、一見近く見えるがひたすらに遠いものとして言葉が現れたことがあったのか。さあ、記憶している限りでは確か今までにはなかったのだが、決して馬鹿をしない内側にいることは挑発的であるか、そうでなければ何でもないことだったのだ。簡単なのだ。難しさがあるとすれば、簡単だということに飽き飽きしてそこから出たくなってしまう、つまり退屈の為から愚かさに身を投じてしまいたくなることがあるが、そこぐらいだろう。実際破滅的な愚かさみたいなものに無縁で、ということはのぼせにくい訳だが、それが一体何だというのだろうか。のぼせて愚かな失敗をしてしまう人たちより私が何らかの点でマシだとでも言うのか、どうもそうは思えない。そんなに熱を上げなければいいのにという不毛な、つまり何の足しにもならないメッセージが伝わったところで、私とその相手との関係の中で何かが開くとでもいうのだろうか。互いに異質人として眺める、そこを行き来する可能性が無い訳ではないが、どこを通っているのだろうかしらこの道は、解決というようなものを求めていない。