<304>

 まともであると思われるために奮闘しているのか、まともでないと思われるために奮闘しているのか、おそらくそのどちらでもあるために、何が何だか分からなくなり、そこには、まともであろうとする異常さと、まともでなく見られようとする正常さとがあるということになる。おそらく洞窟の中で、壁を向いて坐り、動く実体の影を見ているのではなく、延々と鏡を見ていてその中に映るものを本物だと錯覚しているのだろう。いや、この身体こそが鏡によって反転させられている方なのかもしれないが、映像に残る私の遠さと、鏡に映る私の近さとは、普段見ている頻度だけに拠るのだろうか。鏡に映って反転している私、こちらが反転させられている存在だとしたらば、鏡によって元の向きに戻されている鏡の中の私、その存在の確かさに目を奪われ、限りない私への接近を、いや、そのものをも感じているのでないとしたら、どうして鏡などというものが持ち出されるのだろうか。それは見るものだ。何故自分を見てしまうのかを鏡の前に立つ度に、ゆっくりとしかし散漫に考える。

<303>

 中学の時だったか、授業の一環で、金閣寺修復プロジェクトのようなもののドキュメンタリー映像を観た。尤も、焼かれたものを全て一から建て直すときの映像ではなく、汚れてダメになってきた金箔などを剥がし、漆を塗り直した後で(確か漆だったと思う・・・)、また新たな金箔を張りつけていく、というような映像だったと記憶している。

 そしてその、古くなった金箔を剥がした後、漆を塗り直す作業も終わり、また新たな金箔を張りつけようとする段になったとき、

「ああ、余計なことを・・・」

と、何故か思ったのだった。するな、と思ったのか、したな・・・と思ったのかは定かではないが、とにかく余計なことだという意識がよぎり、それは漆に塗られた金閣の姿がとても美しく、完成形のそれとしか思われなかったため、職人の漆塗り作業のひとつひとつが美しかったため、漆そのものの輝きに魅せられたため、といろいろあってそれが重なって押し寄せてきたのだろうが、金閣の表面に金箔などを置いてくれるなと思ったのだった。

 しかし、全ての工程を終えて、完成された黄金色の金閣寺を見たとき、何の違和感もガッカリさも覚えなかった。さっき余計なことと思っていたのを忘れた訳ではなかったが、当然金閣はこうあるべきで、漆塗りが終わっただけで良しとされ、黒光りした状態のままで屹立している姿は想像だに出来ないのだった。

 つややかな黒い塊を背にし、修復の責任者が、

「金箔は張られていませんが、私はこれで完成だと思っています」

と言ったとして、それを私は誰の言葉として聞くだろうか? 私自身の言葉と一致しているという感覚は、なんとなくもぞもぞしたものになるだろうという気がするが、そういう状態の金閣に相対したことがないので何とも言えない。

<302>

 大検討の古い夢を見よ。自分の見た夢の呈示という不可解さ。道順のないごわごわからあれよあれよと道が現れて、通過する。久しく夢を回復していなかった不安と破られた安堵で、しばしの休息を楽しむ職業人は、もう一度初めからやり直し、技術もリセットされるとは夢にも思っていない。尤も、本当にリセットされる訳ではないのだが、完全にリセットされたように感じるのだから、ほぼリセットされたのだと考えても間違いがない? 技術が離れ難く身に染みついていることにいちいち驚く当の本人は、検討を加えることはしないのだろうか。何故なら最初の一歩であるはずだから。歩行姿勢を間違えないことに似た夜の気まぐれ。薄ぼんやりとして見えにくくなった全体と私とに差がないことに、ぴたっと合わさる感情はないのだった。

<301>

 そう、警備を拒否してしまえばいいのだ。最初からそうしていれば良かったのに、と軽く浮かれて、入りたい放題出たい放題の群衆を眺める。尤も、核心に近づける訳ではなく、殺到する人たちは大喜びで外側をぐるぐると回るだけだったが(非常に速かった)。

 走り回らないうちから、もう何周も回ったかのような表情をしている者がひとり居る。こちらの方でも手招きするのが億劫であるといった感じだ。嘘だ、守らないというのは嘘だ。そんなことはないのだが、嘘だと言われれば確かにそうなのだという気もして困った。比較的検討力の薄い空気を冷ややかに包み、投げ出すのは誰だといった問題を徐々に殺してゆく。人間ではないものの姿を私は見るのだろうか(私に?)。随分と狭い条件に収まろうと皆で殺到するものだから、そりゃ窒息死を招ぶのが当たり前というものだろうと思った。爛々と輝く視線を、植物にも見留めなければ動物にも見留められないので、そういった視線の人にぶつかると、ある種異様な空気を感じるのだったが、それが良い印象に繋がるのか悪い印象に繋がるのか、どちらでもあり得るというのが不気味さの原因であるとも思ったのだ。

<300>

 その人の前で何となく、いつも寝てしまったり、寝たいような気になるのは、安心しているからだったが、その人は、前にも他の人でこういうことがあった、というかよくあるのだと言って拗ねてしまう。端から退屈している可能性だけを考えているのだ。そうではないから一応私は違うと言うのだが、違うと言えば言うほど、相手の中では、退屈していたのだという考えがより確かなものになっていってしまう。しかし、黙っていればいたでまた、本当は違うのに、はいその通り退屈していたと素直に認めるようなことになるではないか。

 安心していたということを充分に伝えることが出来ない。

「安心していたのだよ」

と言ったところでダメだ。この場合仕方がないから、心底安心しきったような顔で、傍らで眠ってしまう以外に方法はないのだが、それも相手には結局、退屈から睡眠へと逃れられてさぞかし満足だろうこの人は、と映ってしまうだけだ。どうにもこうにも仕方がないが、安心して寝ているところへ、退屈しているのだと勘違いしてむくれている人の視線を受けるのは、決して悪いものではなかった。それはそれは悪いものではなかった。

<299>

 訳の分からない坂を仰ぎ見て、どこまで行ったらいいものやら、散々な目に遭いながらも、何とでも上手く言えてしまう状況が容易に想像出来ると、そのことでまた疲れてしまう。上手く言って逃れるというのが仮に(仮にじゃなくてもいい)大事なことだとして、為した後には、そこに大きな穴が口を開けているのを見る。押し黙ってどんどんと追い込まれている方がマシなのではないだろうか。決してそんなことはないのだろうが、まあどうかなあ。押し黙っている方がいいなんてなことを考えるぐらいだから、そんな余計なこと言わなくてもいいのじゃねえかと思うことはよくある。しかし、そういった余計なことを、余計なことと分かっていながらしっかりと取り込めることが大事で、というかそれが渡り方なのだ、というのは分かっていて、野暮を承知でそれをずんずん出来るのは、そりゃ偉いやな、かなわないやなと思っている。まあ決して自分も同じようにしようとは思わないのだが・・・。

<298>

 紙一重であることを感じる度、やはり、うろたえる。うろたえることを強制されていると言ってもいいぐらいに、その態度は必然のものだ。どうして転落したものの側に立ったり、転落したものを批難する側に立てたりするだろうか。自分の足元も同じようであることを悟り、オロオロするだけだ。そんなものは態度とすら呼べないのかもしれない。

 仲間の転落を味わった者が、擁護するのも変だと分かりながらも、そのあまりの批難の嵐に疑問を覚え、しかし取り立てて言うこともない為に、いきおい擁護の言葉を吐いてしまうのには、紙一重だったという感覚が、そして私もあなたも紙一重だという感覚があるのではないか。また、転落した当人の、開き直るのは絶対に違うと分かっていながら、それでもここまで言われることに何がしかの違和感を覚え(大半は何も関係のない人なのだから)、しかし取り立てて言えることもなく、いきおい吐いた言葉が開き直り以外の何ものでもなくなってしまうことの背景には、紙一重だったのだという感覚が、踏み外したことには随分といろいろな偶然が重なっていたのだ、という感覚があって、それはなかなか拭いがたいことであり、またそれは一面の真実であったのではないか。