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<155>

 飽きさせないものが飽きるものに姿を変えてしまうことほど耐え難いことはない。何故かは知らないが、全てのものは日常性をもたらされる運命にあるらしい。つまり、目先を派手に次々と変えていっても、必ずそれは一定のリズムに捕まる。それ自体(あっちこっちへ動くこと自体)が日常になる。そうすると、ただ退屈しているよりも落差が一層大きいので、なかなかにしんどい。こういうことを考えるときいつも、お釈迦様の手のひらの上から決して逃れられない孫悟空のことを思い出す。どこまで行っても日常の上・・・。そうして結局どこに至りつくかと言えば、ごくごく単調なところへだと思われる。飽きさせないものは、飽きを超えることが出来ない。抑えつけ、そして抑えつけたばっかりに増幅させ、加速させてしまうということを繰り返すだけだ。単調さに深く深く沈んでいけば飽きを超えられるのかどうか、それはまだ分からないが、最初から単調だと分かっていると、落胆は少ない。

<154>

 散々問われているからこの問題はもう終わり、問うても仕方ないし、問うならば違うところを問わなきゃ、で動いていこうがどうしようが、その散々に問われた根本の根本が、依然として切実なものであり続けていることは変わらない。先にいろいろな人が問うていたとして、その軌跡を眺めても、その運動を自分が経過していないなら何にもならない。つまり自分の手足を使って、もう一度初めから、切実であるならば(あると思うならば)、問うてみなくては、ならないという訳ではないが、例えば根本の切実なることが痛切に感じられているのにもかかわらず、非常に沢山の人が既に問うてきたからという理由で、問題を横にズラしていく、違う方向へ拡げていくということをしていると、おそらく徒に(必要があってではない)問題をグチャグチャにして、分かりづらいものにしてしまうことになる。あんなことこんなこといろいろに手を出しても結局のところ、問題はひとつである、何だこれは、と・・・。

<153>

 何でもこれひとつで説明できる、うん、様々な要素からその分野で使えるものだけを取り出して、記号(言葉もそう)に置き換えていけば、あらゆる領域のことを、それひとつでとりあえずは説明出来るようになるだろう。故にこれを究めれば、全部のことが分かったことになる、いや、ちょっと待て、説明できることと全部分かったことは違うのではないか。ある現象、存在から、説明できる部分だけを取り出し、そういったものを方々から集めてひとつの体系を築き上げても、理解出来たのはその切り出してきた諸々の断片のことだけなのではないか。また、厳密に言えば置き換えられないものを、ある種の力技でえいやと同じにしてしまうのだから、説明出来るのはある意味当然だと言える(あれもこれも同じと認定するのだから)。でも、現実にそれらは同じではないではないか。勿論、同じでないものを便宜のためにある程度同じものとしてまとめることは有効だし悪いことではないだろう。しかし便宜のためにいっしょくたにしたのは完全にこちら側の都合であって、全部が全部違っている対象のことを、そんな便宜のための整理によって完璧に分かったなどと言うことが出来るはずもない。便宜のために使ったものはあくまでもその範囲に収まる。便宜は便宜として捉えればいいのであって、それ以上の全体が分かるなどと考えるのは良くない。

<152>

 社会とは説明である。もう少し言えば、社会内の個であることは説明の努力によって保証されている。逆に言えば説明に縛られる。これは非常に萎えることだが、まあ、やらない訳にはいかない。これに萎えているのはおそらく私だけではないだろうと思われるのは、到る所で嫌悪の結果を見るからだ。つまり説明の過剰、誰も何も訊いていないのに延々と自身の説明を垂れ流し続ける、突っ込まれることに対する牽制、積極的な防御。あるいはゴニョゴニョまあまあと濁す。ひとりになれるときはなるたけひとりになる(完全に説明が不要になるのはこの瞬間だけだ)。群れることへの嫌悪即ち説明の嫌悪なのではないか。

<151>

 平和も危機である。それは全く穏やかな状態というのに耐えられない部分が少なからず誰しもにあるからだ、というようなことを以前書いたが、穏やかな状態というのに何となく我慢ならないところがあることと並行して、強烈な経験と、「本当」という観念とがあまりにも容易に結びついてしまうという問題がある。強烈な経験というものを否定する訳ではない。強烈な経験は強烈な経験だ。だが、その強烈さ故に、尋常な、平凡な経験は本当ではないのではないかと考えたくなる誘惑に駆られる。これは良くない。経験に、本当であるとかないとかの区別はない、と頭で考えて言うのは簡単だが、実際に、その経験が強いということは、当人に大変な影響を及ぼす(これが本当ではないと言うのか? だって、これだけ強烈で、手応えがあって・・・。日常の生活にはこんな衝撃はまるでないではないか・・・)。

 平和が時に、

「平和でいいねえ・・・」

という形で嘲笑、軽蔑の対象となるのは、おそらくその渦中に強烈さというものがないからであろう。どこか他のところでなまじ強烈な体験を経ていると、平和状態を「ぬるい」ものと見たくなる、あるいは無意識に見てしまう。そうして、表向きは皆で目指すべき目標だと言いながら、常に底の方では、

「とは言ってもここに居ちゃあいけないんじゃないか?」

という意識が働いてしまう矛盾が起こる(最も平和に生活している人でさえこの矛盾は少なからず抱えているだろう)。経験の強さを求めることは必ずしも悪いこととは言えないが、強い経験を「本当」だとして、その他の経験の軽視を始めることは、明確にまずいことだと言えるのではないか。

<150>

 嫌いだ、ということを大した事件だと考えるから、変に繋げようとして状況を悪化させたり、そのままに留まることを何か大変悪いことのように考えたりしてドギマギするのではないか。嫌いが発生してくるところを観察するというか、考えてみると、実に何でもない、ありふれた、日常に身近なことだったりする。曰く、仕草が気に食わない、声のトーンがいや、ちょっとしたタイミングのズレが何度か重なった等々・・・。あまり大層な理由から嫌いが発生していることは少ない(勿論こちらもそれなりにはあるが)。すると、どういうことか。それだけ身近なことからをも発生する以上、嫌いは、生まれては消え生まれては消えし、決して無くなることはないということだ。そして、そんなどうでもいいようなことが簡単に嫌いに繋がる以上、そのことで執拗に自己を批判したり、落ち込ませたりする必要もないということだ(別にやって悪いということもないが)。要するに、大袈裟にならなければいい。嫌いだから二度と目も合わさないとか、逆に、真剣にぶつかることで何らかの解決を見なければならないとか、そんな極端にばかり振れるのではなく、極端を一般的な解決と考えず、ただぼんやりと、

「あっ、なんか嫌いらしいなあ・・・」

と思っておく、それで済むときはそれで済ませてしまえばいい。勿論、真剣にぶつかり合って和解を目指してもいいのだが、和解はつまり仲直りであって、最初から仲の良い地点というものを持たなかった関係では、和解も何もない。

<149>

 著しく不自由な状態と、そうでもない状態とがあって、大体はそのふたつに分けられるのではないかと思っている。ここで自由、本当に自由な状態というのはないのかという問題があり、私は、そういうものは想像の中だけにしか存在しないと考えている。あるいは仮に存在したとしても、決して耐えられるような状況としては現れ得ないと思う。つまり快適な、それでいて全てから解放された自由というのは、状況の設定遊び、言葉遊びになりかねない。それは身体構造や精神構造の問題なのかもしれないが、まるで制約がない、モデルもない、道もない、あなたの出す一歩一歩が全く自由だという状況を想定すると、矛盾するようだがそこには大変に重い制約がまたどこからか現れてくることになる、それは究極のところ、生きていても生きていなくてもいいという事実の重さ、完全な自由というのはそこまで行かなければ嘘だろう。そこを避けて求められる「本当の自由」は、既に言った通り、設定遊び言葉遊びになる、つまり言いようによって何でもありになる、そうするとおそらく迷走する、こんがらがる。それよりは、著しく不自由な状態に陥ることだけを注意して、巻き込まれそうになったらいち早くそこから外れるという対処をすることだけを想定している方がシンプルで分かりやすいだろう。また、混乱もしないだろう。受動的な態度であるかもしれないが、あるはずの本当の自由というものを追い求めて、次々に色々なものを外し、そのことによって逆にまた、新たな違った重荷を背負うようになるよりかはいくらかマシだろう。