<417>

 そのとき、何故か、私の声を、聞くとでも思ったのか、なあオイ。俺はひたすら呼んでいることをこのように考えているぞ。身体が呼び声のひとつになる。様子が違うかもしれないが、それは当たり前なんだ。一度たりとも見せないという約束と、その約束だけを胸に抱え続けてくれたらいいのだ。

 声が炸裂し、喉という喉、一帯を襲う。一切が匙加減ひとつの戯れであったとしたなら・・・。矛盾の軌跡を、奇妙な表情でなぞる必要は、果たしてあったのかなかったのか。喉より下のことなど、どうしても分からない。

 ひっかき、笑わされまわされ、後を追う面倒が、順番に口腔を圧してゆく、また、ゆくだけの力がある。伝えるのは、何かしらの温度だ、別のものに変換するな、興醒めなのだから。何だ、また笑えばいいのか、そんな態度になぞなったことはついぞないだろう、なあなあ、分かっていればこそのはずだ。熱くも冷たくも、丁度良くもない、というのを、感じたことがないことに由来する、説明の、ただその説明の億劫と、たらたら長さ。

<416>

 完璧に良くはあれないと認識するところまではいいのだ。だが、個人的な話にしても、周りを見渡したときの話にしても、そこから、逆に開き直っていることが多すぎるのだ。良くはあれないのならもう開き直ってしまおうというのは、その中身こそ違えど、ポジションの取り方が同じなので(つまりは両極、極端に振れているだけ)、結果的に、認識したことによって離れられたはずのところにまた戻ってきてしまっている。

 また、開き直ることこそがバランスを取ることなのだと考えてしまっているのじゃないか。完璧に良くあれると信じている人たちがもたらす悪影響に対して、カウンターパンチとしての開き直りを用意する、それによってバランスが取れるのだ、と。しかし前述したように、それでは極端な立場が徒に増えただけなので、バランスは取れるどころか、それによってまた崩れていってしまう(「完璧に良くあれる」対「開き直り」は、故に泥沼の様相を呈す)。

 完璧に良くあれたということでパッと胸を張ることも出来なければ、こんなに悪いのかと反省するほど、またはそこからひっくり返って自慢するほどの悪さにはならないところで、きっと踏ん張ることこそが、バランスを取ることだと思っているし、いつでも両極端に振れる可能性があるところで、それは決して容易なことではないとも思っている。自分の中の、偽善もだが偽悪もキッパリと斥けていきたい。

<415>

 自らの有り様が、不問に付される立場には、決して立たねえ方が良いやな。その立場が悪い訳でもなし、そこに立ったからといって堕落が始まるとも到底思えんが、それはまさに有り様の問題、どうありたいかというところにだけ関係してくるってえもんさ。

 どちらかにハッキリ振れてしまいてえと、思わない訳じゃあないが、身の潔白もいまいち証明出来ず、かといってとことん悪くなろうなんて思わず、とても良くあることは出来ないが、良くなろうと思わないではないというところで、上手くバランスを取ろうとするんでさ。均衡状態てのは緊張だ。バランスを失っちゃいけないね、そうだろうよ。

<414>

 禁欲的な態度、生活実践に、固有の辛さ苦しさは確かにあるだろうが、そういうものに対して、

「偉いね」

と言っている人を見かけると、それは少し違うかもしれないぞ、と思ってしまう。

 第一に、思うさま欲望を解放した後の、言いようのない虚しさを回避出来るから。禁欲的にしていれば、そういった虚しさは伴わないか、伴っても僅かのものであるだろう。

 第二に、逆説的だが、禁欲的生活実践の追求には、また別の快楽があるからだ。素直に動物的に欲望を解放するときのような、パアーッと拡がっていく感じの快楽ではなく、奥底で湧き出して、次第々々に各所へ染み渡っていくような快楽が。

 要するに、楽しさも苦しさと同じだけ、あるいはそれ以上に存在するのだ。だから、楽しみたいところを頑張ってぐっと抑えて、他のことをやっていて、

「偉いね」

と言っているのであれば、それはおそらく違っていると思う。

<413>

 どういったものなのかを把握したいという欲望の後ろに、しっかりと限定はついてきて、それは確かに仕事をするのだが、限定されたものとしての姿しかそこには現れないから、把握したいと願ったものそのものとはいかなくなっている。もちろん、そのものでないにしても、ある程度その限定だけで何かしら掴めるのだが、そういった限定があちこちで為されて、ひとつところに重なり合ってきたりすると、もう何が何だか分からなくなってしまう。

 個々のものはそれだけで一応それなりに話は通ってきたはずだが、それらが集まると、その集合体は果たして何物をも指し示していないということになる。限定して筋道を立ててきたはずのものが、いつの間にか宙に浮いているのはその為か。

 限定されたものは有用である。それを否定する必要はない。しかし、その都度何かを取りこぼしていることを忘れてはならない。そうじゃない、不要だから捨てたのだ、と。しかし全体は、そこで不要だと判断されたものの一切を含めて全体だったのである。

<412>

 この男は、出口でひとり、説明不要のものと化していて、戸惑いを存分に回転させうるだけの場所となっている。また、それは決して理解不能のものではない。当人が、まさか、この態度を持て余している。しかし、それを感じさせないよう、力強く、ただ立っている。

 ただ立っているものは、めまいの対象となるほかない。一度目にしたものを、疑う訳ではないが、まあくたびれた。大層くだけた、非物理的な元気を抱えて、湧き出す先を確かめて、到着を促す。もう時刻は過ぎている。問題ない。空になったホームを、風を切る音と共に、後に残していくのが早朝の目覚め、それから・・・。

 注文はふたつ。不安定な心持ちを、決して開き直りによって逸らさない。不安定な心持ちを、決して反省によって逸らさないこと。入口までわざわざ出向いて、脱力の方途を授ける。そこに感激はなく、ただ、静かなリズムが、ただ、転倒と笑みであるだろう道程が、出口の景色を包んでいる。

<411>

 ここに、こうして、理由も何も、集まってくるなよ。起きたことの仕方のなさというのを、どこまで進めていったらいい? とても怖ろしいことを考えようとして、疲れて失敗に終わり、僅かに動揺させたままでいる。

 ここに戻る、いや、ここに戻したいのだろう。果たして、いくつか考えられることはどれも不合理だ。ならば何処に立っていればいい。動揺させられるがままの風景を見よ。穴という穴が視線を逸らさない。

 まったく、どうしてこういうものが、いつまでも倒れてしまわないでいるのか。むろん、それは期待からではなくて、ただ腹が立っているだけなのだ。最も際の際の状況というものが想定されなければ、きっかけを失ってしまう。この歩みの遅さは・・・。