<360>

 薄暗い景色が徐々に暖かさを持つ、その空気が私と関係になるのだ。かえってそのままどんどんと流してしまったことがよく記憶に残り、細かさは細かさとして気紛れにここへ現れるし、現れたらいい。何が嫌なのか。私が溶け出していくというイメージでは何かが足りない。盛り上がり落ち着いて盛り上がり落ち着いて、結んだり破れたりすることが印象を強烈にして、ということは勝手に止めてはいけないのだった。それはいつでもそうだろう。破れ破れていくものに私が見つからなければいけないということはなく、運動の継続だけが関心事であればよく、結局その運動の関心というものはまた、気紛れに現れ続けて、その意識さえどんどんと流してしまって構わない。

<359>

 本当にやりたいことならば、必ずやっているはずだなどと、あまり簡単に思ってはいけませんよ。ええ、やはり、我慢しているはずです。誰に頼まれた訳でもありませんが、もう少し我慢している方がいいのかしら。どうだろう。

 本当にやりたいことが為されないという複雑な楽しみを受け取ることは、そこまで不快には思われないのですが、単純さを享受出来ればそれに越したことはありません。ああ、私は単純なのです。単純でないとしたならば、単純さが好きなのです。しかし、もう少し居心地が良くあれませんか。居たたまれなさが少しだけ軽くはなりませんか。私はそこにいることが嫌ではないのですが、どうもいつも居る場所にしては違うのです。

<358>

 振り返らなければならないことは何か。点検しなければならないことは? こうした余裕のあるということが、最後であるという事実と上手く一致しない。ああ、全てのものは流れて行ったのだったが、頭の中でひとつひとつを取り戻すまでもなく、大量に引き戻されてくるのだ。感じることは、誰が経過したのだったか、ということで、これはもう私に、流れていく準備が出来ているということなのかもしれない。一番前の景色が映ったような気がしたが、そうと証明するものはない。これだけ眠く、思考という思考がバラバラに散り出していくことを意識しながら、それでもトイレに行って、小便をしたくなる。小便というのはしなければならないからしているだけではないのだ。もう、間に合わせる必要も、単純にする必要がなくなった瞬間にも、小便はしたい。最後の一呼吸に、それはもう要らないじゃないかあってもなくても同じじゃないかといっても仕方がなく、これからのために要るか要らないかだけで呼吸をしている訳ではないのだ。必要があってという訳ではなく、こうやって進まされてくるのだ。意志とかそういうこととはあまり関係がなく、安らかな眠りが時々挟まれるのは、いい休息になればいいというだけのことではなく・・・。

<357>

 最後の夜だ。決定的に何かが足りていないのだが、それが何かは分からない。具体的に数え立ててみれば、その作業にいつまでもかかってしまうような気がするし、それならもう、足りていないという考え自体が間違いだろうというようにも思えてくる。ともかくも、最後の夜まで来たではないか。それは、必要なものはとりあえず必要なだけ揃っていたということではないか。そうでなければ最後にまでは辿り着かないのだから。しかし、辿り着かなかった人にとっては、そこが最後になるのではないか。いや、そこはやはり中途なのだろう。これが最後の夜だとするならばそこはやはり中途だ。誰がそのことを確かめる? 当人だろう。ただ、最後だと分かってしまったことは不思議だ。全部が尽きたということによってそれが分かった訳ではない。量の話ではなく、ここが最後の場面だというのが明らかに分かったのだ。多分、それは誰の身に訪れても明らかに分かる類のものであったろう。分かった瞬間から疑いなくそれはたった一夜になった。最後なんていうことが分からなければよかったのか。分かったところで、普通の、一日の終わりとしての夜と、何かが違ってきたのか。最後の夜? 拍子抜けだ。最後の夜なんか、遠慮がちに道を行く人に譲ってやればいい。最後の夜がほしいか、と訊くのか? しかしいったいいくらで・・・。

<356>

 何よりもまず、熱に浮かされているのかもしれない。動くのが億劫なので、同じことが何度も何度も頭の中で繰り返され、静かな音になり、終点を見失ってだんだんに身体が温かくなると、不可思議な眠りと時を同じくするのだ。どうせいつわりの温かさだ。しかし、これが快適でなかったら何なのだろうというもたれかけ。そのまま起き上がらなくてもいいのだと思ってもみない声やら声で届けてみるのは何故だろう。それは無理してでも労わろうという思いか、いや、決まり事の類だ。一度の次にもう一度が重なるのでない、ならば? バラバラに分かれていく作業なのだ。望むと望まないとにかかわらず、バラバラにひたすら分かれていく営みなのだ。

 しょんぼりと収まって、安心して眠る。その記憶にはまだ、私の分からない点がいくつもある。いくつもあるかどうか、試みに数えてみたらよかろう。冷静に考えて、より以上熱いはずなのだ。全てが夢の中の景色だ。例え話ではない。

<355>

 関心と無関心を同じ位置に(高さに)据えたいのだ。良い方と悪い方という捉え方でなく、関心と無関心が同じくらいあることによってその場が安定するというような。絶対に皆が関心を持つべきだと信じられている問題においてさえ、本当に皆が皆関心を持ち出すようなことになったらいけない。まあ、いけないということもないのだが、皆が関心を持ち出すと、その問題の当事者たちも、関心を持ち出した周りの皆も、同じようにしんどくなる。もちろん、だからといって全体に無関心が拡がればいいという訳ではなく、先述したように、関心と同じだけの無関心が、無関心と同じだけの関心があるのが一番いい。その割合が、どちらかに偏っていくようなことになると、しんどくなる。

 しかし、何もしていないことの効用は分かりにくく、興味を示さない人間に対する感謝は難しい。以前にも書いたように、それは異常に冷たく、感じ悪く見えるからだ。これだけ重要だと思われる(皆が重要だと当たり前に信じている)ものに対して興味を抱かない人がいるのかという虚しさそれ自体が、その一方で空気、空間を作ってもいるのだ、ということは言っておかなければならないだろう。

 いかにそれが好意的なものであったにせよ、問題の当事者たる人間の周りに、皆の関心が延々と渦巻くような状況があったとするならば、その当事者は、吸える空気も見つけられないままにあっという間に窒息してしまうようなことになるだろう。

<354>

 どうにもならないぞ、というとき、

「どうしたらいいですか?」

と、そのどうにもならなさを他人に預けて何とかしてもらおうとするのは良し悪しだ。そうすることによってものが開けていくこともあるから一概に悪いとは言えないのだが、自分の判断や決定の領域を、自分のミスによって失い、あるいは奪われすることで、どうにもならなさが拡がっていった、どうにもならなさの原因には、自分の判断というものを失っていってしまったということも含まれると思うので、その上残り僅かの自分の決定領域を、

「どうしたらいいですか?」

という問いによって他人に委ねてしまうのは危険でもある。そこでとんでもない答えが返ってきたとしたらどうだろう? 

 答えはないし、正解もない。それは仕方ないが、どうにもならなさの沼に沈んでいかないためにも、大事なことは自分で決定する、判断するという姿勢を取り戻さなければならない。たとい自分の判断力が拙いとしてもだ。