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<214>

 私ばかりが決定していて良いのだろうか。こういう悩みはひとりで居るときには生まれまい(本当にそうか?)。グループの中に居るとき、ときには決定に積極的に関わり、ときにはちょっと引いたところで他者の決定を尊重し、とバランスを図るのが良いのだろうが、完全に引いてしまうか、ずんずん進んでいくのについてきてもらうか、というような極端なことになりやすい。引っ張っていく、あるいはついていく、そのどちらの立場にも立たされたことのある人が大半だと思うが、引っ張っていく場合、そこには振り回しているという罪悪感があり、かといってついていっている場合に、引っ張っていく側の人がある程度振り回してくれた方が楽で、あんまりそこのところで気を使われすぎても嬉しくない、というところがある。グラグラと揺れやすい土台の上では、どちらかに傾いてしまうことが多い。ひとりで動く場合においては、そういった揺れをほとんど経験しなくてもよいという強みがある。しかし何の揺れもないことによって逆に疲れてしまうという弱みもある。身体を預けて揺れながら進めない。

<213>

 いつ決まるのか。流れていく中で、気がついたらいつの間にかその形になっている、というような仕方で決まる。そうすると、掛かっている時間的にはあっという間ではないかもしれないが、視覚的には、目を離した隙にいつの間に!ということになる。

 じっくり考えてみます、考えさせてください、と言うとき、もう決まったことを考えていると思った方がいい。じっくり考えることで何かを決めているのではなく、前述したように、意識しているんだか何だか分からない流れの中で、徐々に徐々に、そしていつの間にか決定は為されている。その出てきた決定に、多少なりとも衝撃を受けている。その衝撃を受け止めるための時間が、じっくり考えている時間だ。じっくり考えて何かを決めるなんて仕方は取っていない。それは動きとしてもぎこちないという気がする。

<212>

 不安と好奇心とから、この人は何者なのか、という情報を求める、集める。しかし出身や職業などが分かっても、この人が何者であるかは本当には分からない。しかしまた、その人そのものに迫っていける分かりやすい道もない。例えば親しい友達などを見て、一体この人は何者なのだ、情報を集めなきゃ、という不安に駆られることはない。一方で、よく知らない人の場合は、それで何が分かる訳でもないのに、出身や職業などの情報を集めなきゃ集めなきゃと焦り、実際にそれが得られると、一応のところは安心したりする(そうですか、教師でしたか・・・)。

 しかし、結局何者なのか分からない人の肩書が分かっただけで安心しているのは、ものすごく奇妙ではないか。何故それで安心できたのだろう。この人が何者であるかというのを漠然と掴んでいて、その人の身につく地位や職業などがどう変わろうが、その人はその人で揺るぎないと思っている方が自然ではないだろうか。また、そこまで行かないと安心出来ないのではないか。尤も、漠然と掴むためにはそれなりの時間がかかるし、それなりの付き合いも必要だから、とりあえずの間は、何も掴めていない不安を消すために、その人の外側にくっつくものを確かめて、何とか分かったつもりになっておこうとするのかもしれない。

<211>

 よっぽど嫌だとか、よっぽど凶暴だとかでない限り、数か月、数年と間が空いていれば、大概はニコニコ会える。毎日々々会っていれば、大概の場合は嫌になる、クサクサする。何でか分からないけど嫌だと言うとき、頻繁に会っているだけなのではないか。頻繁に会ってクサクサしているだけのところに理由を求めてはいけない。これが毎日どこかへ通うということを憂鬱にしている。毎日違う人と会う訳にはいかないそれはそうなのだが、皆で同じように集まって同じ顔を見て同じようにクサクサするのはまたそれでとても変ではないか。全く会わずに通える日のあった方がいいのだが、そこまで行かなくともまあ、あまり関わりないようにしておかなければとても長くは居られない。

<210>

 根本条件を承認出来ない人よ、無年齢者よ。先送りが嘘だと気づいて何になるというのだろうか。無論、何にもならないさ。幸い、お前は体調を整えることでどうにかしているんだろう。疑う、というのは、そのものが一見確からしく見えていなければ出来ないことだ。これは疑うまでもない。本当に戯れさ。順に順に送られるという幻想を解消して何になる。本当に戯れだ、と言う以外にないだろうが。

<209>

 眠さのあまり、とろやかに死んでしまった。よく触る左手よ。ゴツゴツと、いくらか軽やかになっている夢の身体の、昔はとても重いこと重いこと。懐かしさが現れ出たとは思えない。いつも同じ範囲に収まっているからだ。だから懐かしさがいつでもない。しかしかなり隔たったところで、全く関わりがなくても当たり前、あるいは明日からまたその生活が始まっても、違和感というものは、一応表明した方がいいという意識(気配り?)によって出されるだけだ。懐かしさとは、忘れていたことではないだろうか? 忘れてはいないことの忘却、そして忘れていないことはやはり懐かしくはないのだ。

<208>

 生き生きとしているのと、憂鬱そうにしているのと、どちらも同じではないか。それは、あなたが元気な人でも、憂鬱な人でも、どちらでも構わないんだよ、という話ではない。どちら、というような区別もなく、同じだ(大きく括った訳でもない)。同じであることに内側からは気づきにくい。地球の外から見て、その遠さの為ではなく、ハッキリ同じだと分かることに気がついて驚くだろう。であるから、快活さを志向したり、倦怠的な性質に寄っていこうとする努力は物事を徒に複雑にする。快活即倦怠、倦怠即快活だ。全然違うって? まさか顔を見てそう言うんじゃあるまいね。