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<189>

 あまりいじくり回すのも良くないのだろうが、心の問題ほど不可解で、また面白いものもない。気持ちが萎えていたら出来ないものも、また盛り返してくれば出来る。それはすごく重要な移り変わりで、萎えているときに無理に動こうとするのは良くない、というのは経験的に分かるのだが、はて身体の作りが変わってしまう訳でもなし、違う場所に移されるのでもなかったとして、気持ちの変化で行動が可能か否かが決まるなんて、何とも変な感じがするではないか(別に変ではないのだが)。時折夢想する、気持ちが萎えるとか盛り上がるといったことに関係なく動ける身体を。それは自由ではないか。別にそこで自由になったからといって何をしようということでもないのだが。そうやって動く自分を想像して、軽くなった気持ちになる(いや、実際に軽くなっているのかもしれない)。ひどく落ち込んでいながらも、やけに力強く行動している、それは何だか不気味であるかもしれない。しかし、それはそれでまた愉快ではないか。

<188>

 時間は出来事や時代の分だけ在り、新しい出来事に出合えば、私の中のどこかに円みたようなものが形成され、後、すぐに回り始める。最初のうちはまだ円も少ないので、全てが回っているが、しばらく経って円も増えてくると、あるものは止まっていたり、あるものは動いていたりというようなことになる。幼少時、時間が長く感じるのは、回っている円の数々を逐一見渡せて、かつまたじっとよく見ることが出来ているからではないか。年を経て、円の数も増えてくると、あまりどれもに目を配ることが出来なくなったり、あっちゃこっちゃ見ることに忙しいので、ひとつの円をよく見るということが少なくなり、時間の過ぎ方も早く感じるようになるのではないか(よく物を眺めているときと、なんとなく見たり見なかったりするときとでは、時間のスピードが違うだろう。つまりなんとなく物を見ていると、気づかぬうちに、充分に吸収できぬうちに、流れてしまうようなことになる)。

 止まっていた円がそれ相応のきっかけで動きだし、また現実でもその円に関係するようなことに出合うことによって、照明がその円に充分に当たるようになると、まるでこの円が本当の私の中心だったような気がしてくる。この場所が基本の場所で、他のところを回っていたのは、全てここに帰ってくるための寄り道だったのだとすら。しかし、その場を物理的に離れることで、強烈な光も消え、再びその円が回ったり回らなかったりというリズムに還ると、中心の場所がそこであったなどというのはまるで勘違いであったかのような気がしてくる。しかし、勘違いであるかどうかは分からない。円の数だけ中心、基本の場所を私が持っているということかもしれない。時間について私はそんなイメージを抱く。

<187>

 それを失ったら終わりだ、というようなものを失って、平気でいるのとそこでは決まっていた。真面目さが順序を解体するという話が私にはよく分かる。建築物には何かの無理がある。何かの図を作る、するとそれに規定される。そんなことは窮屈だと言うよりほかない。めちゃめちゃに拡がって、何も確かめ得ないで、平気でいるようなことは無理だと思うのは、実際にそうなってみないからだ。実に大したことではない。困惑の度は強まるが、強まるなら強まればいい。

<186>

 判断することには、覆ったと勘違いする危険が含まれている。いや、判断すること即ち、勝手に覆ってみせることなのかもしれないが。これは不可解なことかもしれないが、誰かのことを私は全面的に掴む。しかし、その人の全体を掴む訳ではない。であるから、私の取るべき態度は、自分がどうしても全面的に掴んでしまっているものを感じながら、決して判断は行わず、その人の茫漠たる全体に、静かに執拗に潜っていく、というものになる。

 あるときは有用性の側面から(つまり、この人はもう現代では役に立たないだとか)、あるときは勝手な興味の喪失から、あるときはその人に優ったという意識から(もはや、私にはこの人から教えられることはない)、勝手に判断を下して、何となく片がついたような気持ちになる(所詮この程度さ・・・)。しかし、どんな人であれ、人ひとりの規模というのはそんな小さなものではない。誰であれ完全に覆い切れることなどない。片がついたと勝手に思っていると、必ず後で不意打ちを食らう。

<185>

 高尚な話題、規模の大きい話題に関心を持っているときに忘れがちになるのが、それがとても楽しいと感じられているから参加できているという事実だ。どんなにか過酷な、悲惨な現実に向かっているときでさえ、楽しさは裏にびっしりとくっついている(楽しさで抵抗があれば、興味深さでも何でもいいのだが)。しかしそのことには、そこに対する興味が外れてからでなければ気がつけない。例えば、あまりに確率が低いために、今の今まで一度も事故や事件に出会わなかったが、そこから、出会わなかったのは自分がちゃんとしていたからだ(出会った人は皆、どこかちゃんとしていなかったのだ)と考え出したくなる誘惑にはなかなか抗し難く、実際に、どうしても避けられなかった事故などに遭ってみて、ああ、ちゃんとしているとかしていないとかはあまり関係が無いこともあるのだと気がつけるまで、そう考えたくなる誘惑はなかなか去ってくれるものではないのと同じように。

 興味を持て、あるいは、このことには多くの人が関心を持っているのが理想的で、そうでない現状はマズい、というような捉え方をいくらしようが、おそらく何の関心も引き出してくることは出来ない。物事が悲惨であろうがそうでなかろうが、どうしてもその人がどこかに楽しさ(興味深さ)を自分から見出せなければ、興味を持つことなど出来ない。であるから、大事な問題(と一般的にされている)に全く関心のない人がいても、私は何らの批難をも加えることが出来ない。自分だって、どこかに楽しさがなければこの問題になど入っていけはしなかったことをよく知っているからだ。

<184>

 自分と似たものが出来上がれば、延長が分かりやすいのか。恐怖としての欲望、つまり怖ろしいまでに同じものを望んでいる。私がここで続いていくという幻想を保持しやすい。教育の運動というのは、開いていくと同時に閉じていく。同化していくことを望む場合と、半ば力強く引っ張ってくる場合と、動きの流れる方向自体は同じだが、さて・・・。その人の身になっていく、埋没していく、それが義務であることはつまらないと感じる。ここで、つまらないと感じているとき、何かを感じ損ねている? 望まずに潜っていくことが怖ろしいと。では何故、望んでいる場合は大丈夫なのだろう? そして事実、それによって拡がりもするのだろう・・・?

<183>

 教育欲というようなものの現れを見ると、いつも、う~んと思ってしまう。それは自分にもある類のものであるから尚更だ。つまり、自制すべきものなのではないか。こういうことを考えている、疑問に思い続けているが、上手く響いて行かない、というイライラは分かるし、私にはその人の話がよく響くだけに、同じようにもどかしくもなるのだが、そこから、

「じゃあもう、今いる人たちは仕方ない。これからの将来を担う子どもたちを教育しよう」

というところへ話が繋がっていくことには反対だ。それは、今いる大人たちを否定しているからではない(それも良くないことではあると思うが)。そこから、まだ何もよく分かっていない子ども(つまり一番与しやすい対象)を、自分の理想通りの型に作り上げていこうというグロテスクな欲望、暗い欲望を感じるからだ。たとい、そんなつもりはないと言おうとも、無自覚であればこの暗さは解消される訳ではない。

 すると私は、教え導こうという姿勢そのもの、そんなことをするのは当たり前だと考えられているもの全体に対する反発を感じているのかもしれない。もちろん、子どもへの教育が全く放棄されていいと考えている訳ではない。ではどうするか。手持ちのものを全部提示して(何ものも隠さず)、そこから後は、当人の学習意欲にただ任せておくほかはない、つまり、子どもの意欲を挫かないように気をつけて、惜しみなく開いていればそれで充分だしまた、それ以上入って行くべきではないと考えている。自分の言っていることが響いていかないことに納得がいかないから、子どもに狙いをつけてどんどんと考えを吹き込んでいこうというのは、いかにその内容が美しく見えても、やはり危険なことなのではないだろうか。もどかしくても、考えを述べる側は純粋に考えを述べるにとどまり、響くか否かは完全に受け取り手に任せなければいけないのではないか。