<486>

 なんでもないような状態、平穏な状態というものの有難みが、もう少し確かな実感としてやってくるといいのだけど、という願いは別に正当なものであろうし、そんなに変な呟きだとも思われないが、しかし、なんでもないような状態は、なんでもないような状態として現れてくるからこそ「有難い」のだし、なんでもなさに有難みを、そうしょっちゅう感じていたのでは、忙しくってしゃあないという気がする。それでは疲れる。異常な状態から、なんでもない状態へと戻る。それは、大変に素晴らしいことだが、それを感じられるのもわずかな時間だけで、なんともない時間にまた戻ったときの心情はやはり、

「なんともないな(何と言うほどのことでもないな)」

というものになり、そのあっけなさというのは笑いを誘う(さっきまであんなに大変だったのに!)。30分前までは、

「もう死ぬ!」

とすら思うような苦しみの中にあったのに、今は優雅にコーヒーを飲んでいて、周りの人と和やかに会話を交わしている、なんてなことも当たり前にある。一見するとそれはおかしなことのようだが、瞬間々々がそれぞれで真実であることを考え合わせれば、別段おかしなところはない。

 瞬間々々が別々に真実であるからこそ、その不連続で感激や、満足などがそんなに無い代わりに、精神的(身体的にも?)には割合に助かっている部分がある。ついさっきまでの辛い状態も、過ぎてしまえばそれほどでもない、というより、過ぎてしまうと、それが時間的に非常に近い過去であろうが、今現在との間には深い断絶が生まれていることに気づく。

<485>

 投げかけるとき、投げかける先のことを、曖昧にでもとりあえず想定しているものだが、想定したものと、対象の実情とでは、あまりにも違いが大き過ぎるので、申し訳程度に当惑してしまうというか、あらかじめ想定しておいたものは何だったのだろうかという気持ちになる(現実は、私の考えから奇妙に離れている・・・)。

 しかしだ。現実には接し続けているというか、常に現実というものの中に在り、対象を観察もし、ぶつかりもし、それでいながら、全然違うものを想定しているのは何故なのだろうか。わざとなのだろうか。つまり、違う姿を必要としているから、違うものを想定しているのだ、という説。あるいは、想定するということ即ち違うものを描き出すということなのではないか、という説。つまり、常に見てきた触れてきたのにもかかわらず、なおも誤った認識をしてしまっているのではないかという話は、別にあり得なくもないのだが、そう当たってもいないのではないか、ということだ。何かを間違え続けているのではなく、わざとか、そもそもの構造の問題か・・・。

<484>

 剥がしてはまた剥がし、生まれては生まれ、生まれることにためらいがないのを見て感心するでなし笑うでなし、どうもこの度は動きが良くなったと思いませんかウームどうでしょう確かにそう言われれば動くようにもなったと思いますが、こっちで動きやすかったりあっちで動きにくかったりするんで、実感としては、少し動きにくいということになるかとは思います。

 動きにくい状態から、少しく動きにくい状態へと移ることには、確かな満足感がありませんで、まあそれでいいと思いますというか、それに慣れなければならないということが分かります。これは何回言い聞かせてもいいことだとは思いますが、つまり知らぬ間に、動きにくくない状態それから動きやすい状態へと移っていて、

「あれ、いつの間にこんなことになったのかしら?」

となっていることが理想だと思います。それにしても随分と長い年月をかけてごまかしの治しを繰り返してきたものですから、それに対抗していくと思ったら、確かに時間がかかるのも当然ではありましょう。むしろ、早いくらいだと思わなければいけませんね。

<483>

 これだけ用意されていても、全て嘘だから、一切反応しないでいると思う。ただ、反応しないことによって、身という身が硬くなっていくのだが、実はそれも嘘だから、さて私はどうしたらいいだろう、というのも、最初からどちらに動こうが嘘になるように仕組まれている場所で、何かしら本当のことを目指そうと考えること自体が、滑稽なほどに無理なあがきであったからだ。

 すると、およそ反抗という言葉と共にイメージされるのとはまるで違う形で、あっちゃこっちゃぐい、ぐいと押し返していく格好を取る訳だが、通常それは、ただの柔軟体操と取られるのがオチだ。しかしそれで良かった。私にはこの運動が必要なんだという頑迷さが、身体の一番硬い所からをほぐしていく。

 知らない場所でもともかく動き回っている事実を確認しなければいけない。何かを知っていなければいけない、あるいは、知ってからやらなければいけないという話を、ある程度疑ってかかる必要がありそうだが、用意はしながらである。荷物を持ったり下ろしたりしてみる必要はありそうか、いやなさそうか。いずれにしろ、軽快なステップは、恐怖心を除け者にしない。辛抱強く踊りを待っている。それは、夢を見ないからでもある。

<482>

 今、私には、あなたの放心が解るのかもしれない。曖昧な視線の行き先が、来し方が、ここに開いて、すると私のなかに、同じリズムが鋭く光る。

 今、私には、あなたの停滞の意味が解るのかもしれない。何故かは知らないが、随分と動き回ってしまった。細かな震えがとにかく多くなり、それが、目に見える範囲という範囲を逸してしまったから。

 今、私には、あなたの無反応が、少し解るのかもしれない。目の玉と、緩くなった口とが、ここがあんまり長くあることを知らせてくれるから、時間を、ひとつかふたつ、大股に飛び越えた先を見たような気がするんだ。

 物語というものが、順調に解けていくのはさてどうしてだろうか。瞬間の数が、あまりに多くなり過ぎると、この場はもう、混乱としか言いようがないところとなる。私だけでなく、そのことがよく分かるだろうと思う。

<481>

 小さな声で、しかしぶつぶつぶつと、目覚めさせ続けるのだが何だ。そんな静かな攻撃もないだろうに。別に呆れるというほどのこともないが、それではこちらも少しばかり動き回らせてもらうぞ、というものだ。馬鹿ならばそれなりの景色と盛り上がりに対して、落ち着け落ち着けという動きが健気にもあちらこちらで見られるから助かった。眠るのに必要なだけの静かさであれば事足りる。事足りて後、空間を夢と仰ぐ。これは昼間の生活か。昼間の生活ならば昼間の生活なりに、夜とは違った驚きと落ち着きがここに招待さるべき、されてしかるべき、とも思うが、どうだろうか。上がったり下がったりを繰り返す空気と風が、気分というものとの類似を一切示さないのには少し笑ってしまった。お構いなしの秩序、そういうものとして存在するのだから、私も疲れという名前で呼ばれてみたらいいのだろうと思う。

<480>

 分かってもらうって、一体何を? そんな具体的なもの、内容としてしっかりしたものがあるとは思えず、何だか訳の分からない淀みだけが、しかも全体として現れるのでもなくただ漂っているだけのように思われるから、これを、分かってもらったという場合、それはどういうことになるのだろう? それより、そんなことは必要なのかどうかまた、そんな欲求が本当にあるのかどうか、それも怪しい。何故なら、分かったり分からなかったりという範囲に存するものではないからなのであってつまり、あるんだからある、あるからしょうがない、まあありなさいよそこに、というものだと思うからだ。

 ああそうなんだ・・・という、あれもこれもがただの一瞬間なのではないか。くどいようだが、何も分からなかった訳でもない、あるからしょうがないのだよ、というものだ。また、合ったり、合わなかったりということは、そんなにやかましく言わなくてもいいんじゃないか。良い意味でも悪い意味でも、それはどうしようもなかったりする。ならば、確認するべきは、純粋な体調だけだったりする。