<270>

 結婚している人が高い評価を受けたり、恋人を作る、という言い方が当たり前に為されることの訳がようやく分かってきた。

 つまり、人間の頭数を揃えることが社会にとっては最重要事項なのであり(貧困や劣悪な環境などがあったとしても、人がいれば国は成り立つが、人がいなければ国もない、当たり前のことだが)、普段どんなことを考えていようが、何をしていようが、結婚した人は、それだけで社会の根本条件を強力に支援する側に回った(準備に入った)ことになるから、社会から熱烈に歓迎されるようになるのは当たり前のことなのだ。結婚しただけでそんなに評価が変わるのはおかしい、という文句は全く当たらない。

 また、己が好み、考えを、社会の要請に沿って曲げられるか、というのも大事なポイントになっていて、これは結婚もそうなのだが(好きなうちは一緒にいて、そうでなくなったらふらーっと自然に離れていく、なんてことを簡単には許さないような縛りをかけているのだから)、特に、恋人を作るという表現にそれはよく現れている。お互いがお互いを好きになったら、自然に近付いたり、またあるいは遠ざかったりするものなのだと私などは思っているのだが、どうも親に言われたことの受け売りなのか、本当に早い時期から社会の要請に馴染んでいたのかは分からないが、随分と小さい頃から、恋人を作るという物言いをして、何の不自然も感じていない人がいる。だって、恋人を作らないのはおかしいではないか、どうして作らないの? ・・・しかし、そう、恋人を作らないのはおかしいのだ、何故なら、そういった関係の取り結び方を勧めている社会にさっさと従わないからだ。恋人を作る、という考え方がそもそもおかしいと思っていたり、ただ好きだという気持ちだけで満足していたり、それではいけないのである。恋人は、作ってみなければならない。気乗りがしなくても、それほど好きになっていなくても、そもそも、その仕組み自体に疑問を感じていても、ひとり対ひとりという取り結び方に疑問を覚えていても、とりあえずそういった関係に入ってみなければいけない。何故なら、恋人を作るという経緯を踏むのは、社会が要請していることだからだ。

 社会の根本条件を承認しなさい(それも口で言うだけでなく、態度で示しなさい)、社会の要請に従って、己が考え、好み、行動を曲げなさい、それをやらない人、つまり結婚もしなければ、恋人を作りもしない人が、不審がられ、嫌がられ、社会から良い評価を受けられないのは当然なのである。社会というのは存続のためにこういったポジションを取らざるを得ないのであり、それに従わないのなら、ちょっとやそっとの低評価、軽蔑は覚悟していかなければいけない。

 

<269>

 忘れられた家がある。それは、胸の中の夜を通して、街灯をひとつ揺らした。浴場の匂いが、ほんのひととき、悪事をさらっていき、佇む群衆の中で静寂を振り返らせる。目的を失った今でもなお暖かく、陽気さが顔を出すのを待っていた。

 しかし、家は忘れられたのだ。忘れられた家は場所を取る。聞いていない話だ。素通りが日に日に煩く、嫌な想像をそのまま夢にする。勢いを増した太陽は遠ざけた視線のように強く光り、汗ばむ明かりと共に窓を揺らした。ボウと映り出て、開き方を忘れる玄関はどこまでも続く・・・。

<268>

 草木と私と、ただ在るというだけのことで、どうしてここまで明暗が分かれるのか。それはひとえに、忙しないからだ。出不精な存在のどこが忙しないのか、いやいや、草木と比べれば違いは明らかだ。自分のポジションというものが定まったら、絶対に動かない(動けないでもいいのだが。それはどちらでも実は同じことだ)。太く太く根を張っていって、動かまいとする。その決心の差で明暗が分かれている。

 また、季節を守ることも。繁る時節には繁り、枯れる時節には枯れてしまうのだ(意思ではないのかもしれないが)。枯れる時節に繁ったり、繁る時節に枯れてみたり、一喜一憂が、日々の営みの中で細かく刻まれ過ぎるところで明暗が決まる。

 どこに根を張るのか。いや、実はそんな場所もなければ、そもそも張る根すら持っていないのだったら・・・。ふらふらあたふたするように動くのが自然なのか。自然な歩き方をしている人は、存外怯えているように見えるのかもしれない。

<267>

 美しさでないものは深さを増した。萎れていくものの横で、色をも増やす。むろん、よりひとつの色が濃さを増しもしたのだった。美しさであるものの汚さを静かに見つめ、微かに笑いもしなかった。若いというのはどうにも頼りないことだった。身体がよく動くというのは、いくらか頼りない・・・。持っているものを充分に余して、その割にグッタリと疲れると、余していたものも同時に退散する。何のために余っていたのだろうか。それは、多分、余力を残すためではなかったのだ。つまり、余力を残してしまう、要らないものもとりあえず蓄えてしまうのだ。それでは、無意味に疲れるのも当たり前だった。遊びがあることは大事だが、それは、あれもこれも持つということではないのだろう。遊びがなければいけない。身体がそれを感じるようになるには、不可抗力の衰えを待つよりしょうがないのかもしれない・・・。

<266>

 効用がないもの、正確に言えば、「効用とかではないもの」について、支持したり、擁護に回ったりすることにはとてつもない難しさが付き纏うなあ、といつも思っている。

「どうしてそれが必要なのですか?」

「別になくてもいいのじゃないですか?」

という質問に滅法弱い。効用があるかないかの発想しかないのは少し寂しいことだとしても、確かに言われていることはその通りだからだ。弱すぎて逆に、効用とかではないものに対するこの手の質問は、もはやフェアではないとすら思っている。この質問に真正面から答えるとすると、効用とかではないものの効用を説かなければならなくなるからだ。これでは、最初から無理難題をふっかけられているようなものである。

 効用とかでないものは説明しない。というより、説明とは相容れない。何かを説こうとする行為自体が、効用(の意識)と直接に繋がっているからだ。説明しないものは、何で説明しないんですかという圧力に抗する術を持たない。術を持てば、即自分も効用に変化してしまい、矛盾になる。

 効用とかでないものを何とか守るためには、泣く泣くそれを効用に変化させて認めさせるしかないのだろうか。しかし、それはとても萎える運動である。もちろん矛盾でもある。こっちでは、効用とかでないものと、ちゃんと付き合う術を持っていたのに・・・。そうすると、なるたけ見つからないようにするのが一番ではあるのかもしれない。それでも万が一、

「それは必要なんですか?」

という質問に捕まってしまったら、その質問に正面からは答えず、そもそも、効用か否かだけで物事は全部分けられるのかどうか。効用がない、ではなく、効用とかではない領域も存在するのではないか、という話を展開するしかないだろう。尤も、それも結局は説明で、効用を説いていることにはなるのだが・・・。

 効用とかでないものは、そっとしておいてもらわない限り、とことんまで押されてしまうものである。そういう言わば宿命みたいなものを持っている。

<265>

 何の返答もない空間で、黙って立っていることが出来ない、ただ座っていることが。最初から既に除け者であることの証拠として、これ以上のものはないではないか。答えなんて誰も必要としていない空間で、ただひとり、ただ一種類だけがそれを探している。尤も、除け者にすすんでなったのか、除け者にされてしまったのか、それは分かったものではない。答えをついに見つけられなかったのだと、過ぎし人を嘲り、答えなんてないと悟った人を軽蔑し遠ざけ、自分だけは何かを見つけられる可能性の中に置いておく、そもそも成立していない可能性の中に。

 そんなことは知っているのだ。答えとかではないということを知り、その可能性が最初から成立していないことを知りながら、その中に身を置いているのだ。いきいきとするためにはどうしてもそこにいなければならない。尤も、いきいきとすることがどれだけ重要なのかは分からない。

<264>

 ただ在るということに対する恐怖や憎悪は相当なものになっている。私だって、最初から最期まで、ただ在るだけなんだ(中で何をやろうが)ということを意識して、怖ろしさを感じない訳はない。しかし、生き物なんだ、ただ在ることは他の何よりも自然なことではないか。自然であるというのは怖ろしい、だけではない、畏れ多いのだ。生きていることの神秘さは、ただ在るということに因る。

 何の花かは分からないが、暴力的な無邪気さによって踏みしめられたそれは、結局沈黙を守り続けた。いや、何も守ってはいない、ただ沈黙であっただけだ。踏みしめた後も長閑な空気が相変わらず流れていることに怖れを成した。

 これだけ確率の低いことが起きている、奇跡だと。これだけ確率の低いことが次々に実現されていったのは何故だろう、という疑問は、作為者の視点から出る。そうじゃない、ただ出現したのだ、ただ実現したのだ。そこには確率の低さも高さも関係がない。ただだから何でも可能だったのだ。そして、何かを可能にしたという意識すらないから・・・。