<127>「大きな声を出す」

 大きな声を出す場所がない、別に出したっていいのだろうが、結果迷惑になり、不必要に他人を怯えさせることになるのは間違いない、声を張り上げるのも好きではなかったし、

「もっと声を出せ」

としょっちゅう言われているぐらいのもんだったから、まさかと思って気がつかないでいたが、野球という、大きな声を出すことが奨励され許容されている空間というのはなんと貴重な場所であったかということに思いを馳せている。私にとっての野球の良さはそこの一点に集約されると言い切っても良いぐらいだ。ネガティブなことばかりではない、自身の中に滞留した怒りを、「ワッ」の一言で外に出す、爆発的な動きによって、後々ぶり返すにしてもとりあえずそこでひとつの区切りをつけることが出来る、ちくしょうという叫び、それが「ワッ」という一言でとりあえず流れる。それはもうしつこいぐらいに声を出し続けていたから、知らず知らずのうちに怒りやストレスが流れていたのだろう、何ともスッキリしないということには当たり前だがスッキリしなくなってから気がつくものだ、大きな声を出す場所がない、思わず出してしまったりするのだけれども・・・。

<126>「混乱も度を過ぎると」

 途方に暮れる、結果的にずっとそうしていたと、大きな声で笑われている人がいたとしても、私はその人を笑えない、外形的な違いを装っていたからといって、途方に暮れる人でなかったと胸を張るつもりもなければ、張れやしない、自分がそうではなかったなんてとても言えない。あっちへ行きこっちへ行き、最後まで忙しなくバタバタ動き回っていた人、私がよくじっとしていたからといって、バタバタすること、焦って動き回ることと無縁だったとはどうも思われない。混乱も度を過ぎると、やけに落ち着いているように見える、実際冷静に動けたりもする、いつも落ち着いていて偉いね、行き過ぎた混乱だとは全く思われていないことでまた動揺する。ある日突然ぷつんと切れる生命のあり方に納得いかなくて、生き切るという幻想を持ち出す人をまさか笑えまい(自分にはそういう部分が少しもないと、まさか言える訳がない)、しかしそこから、生きているのに死んでいるとか、あの人は本当に生きているとかの錯乱した表現をわざわざ持ち出さなくてもいいよ、とは思っている。混乱の中心で落ち着こう、と他人に強いるのもおかしい、そこでひとり、落ち着いているようなフリをしていれば・・・。

<125>「そのみっともなさの格好良さ」

 それがカウンターパンチ、バランスを取るための姿勢であることは分かるのだが、普通に生きている人が一番だよと、特殊な立場に居ながら言ってしまうことの格好悪さ(必要に応じて「俺には普通は無理だからさ」と添えてみたりもする格好悪さ)はちょっと見るに堪えない、同じ立場に立たされたとしたら自分もやってしまいがちだと思うから余計にそうだが。どうだ、俺はすごいだろ? そこいらの一般人といっしょにしてもらっちゃあ困るやな、天才だからねと、自分で言ってしまう格好悪さの方が、圧倒的に格好良い。人はそれを傲慢としてしか見ないかもしれないが、それだけではない、自分で言い切る困難、もしその立場に立たされて同じことを言えるのかと問われたら? いやいや、僕はまだまだとつい言ってしまうのでは・・・。それに、本当に他人が天才だと評価している場合でも、当の本人には自身の足りないところなんてもう有り余るほど、痛いほどに見えている、そこをぐいと超えて、あるいは剽軽に、また大真面目に、天才だと言い切ってしまう、そのみっともなさの格好良さはちょっとほかにない。

<124>「次々に飛ぶ自然」

 この野郎っ、腹が立つなあしかしあれはどうなっていたんだっけ・・・帰ったら何を食べようかな、いや許せんな本当に、というように、様々な意識が何の脈絡もないまま入れ替わり立ち替わりすることの方が多く、激しく怒りを覚えるようなことがあっても、そのまま意識が怒りのままということはほとんどない。現れたり消えたりまた現れたりし、その間には実にいろんな意識、というよりは映像とか閃光とかいうものが去来する、どちらがノイズであるかはほとんど区別がつかない。しかし、さっき怒っていたかと思ったら、急に落ち着いて、そういえばあれはどうなっていたっけ、この前のテレビが面白かったんだよ、何だよそれはおかしいじゃないか、と次々に飛び移る人を目前にしたら、

「この人は情緒不安定なのじゃないか?」

と思うだろう、しかし他の人はどうであれ、私はそういう意識の移り方をする、それをただ前面に出さないで、怒ったらある程度の時間は他の状態に(表面上は)飛ばないよう努めているのは、

「さっきまで怒っていたのに急に他のことに飛んだら、相手が不安がるだろうな」

という遠慮があるからだ、つまり社会内の個であるという意識から来る配慮だ。であるから、怒っていたと思ったら急に他のことに移っていたりするのは、情緒不安定なのではなくて、社会内の個であるという意識が稀薄になったか、あるいは意図的に訓練して社会内の個であることを超越したが為なのではないか、それを情緒不安定と呼ぶのかもしれないが・・・。しかしそういった移り方をする当の本人が別に何らの痙攣もなく、落ち着いていることを考え合わせると、どうにも疑問は残る。ほら、例えば、わっと皆の前で泣き出してしまったばっかりに、周りの人はオロオロとして、どう扱ったらいいかと思案しているのにもかかわらず、泣いた本人はその一瞬の爆発でスッキリしてしまい、涙は流れてくるものの、もうほとんど冷静になっていて、何故周りの人はそんなにもオロオロする必要があるのだろうかと不思議な気持ちになる時間があるだろう、それだ。

<123>「笑っていたら懐かしかったから」

 帰るときに衒いがあってはいけない、それから、すぐ帰る奴だからあいつはと思われてなくてはいけませんよ、何ということなどを言っていた気がしたのをハッと思い出したのは、あの人が二度と帰らないような雰囲気でそこを出ていったからだった。じゃ、行ってくるよといつもと全く同じ調子で言っていたにもかかわらず、もう戻るつもりのないことをハッキリと確信した、証拠もないのにおかしいが、それはトーンなのか身振りなのかしかし何ひとつ違わないということが不自然なくらいには全てが同じであったからそれが演技だと分かったのか、同じとはいつとの?あっと硬直したようになって、妙に意図的な冷めたトーンで、別に変な予感がしたからどうということもないのだよ、などと思ってもみないことを巡らしてみたところで、やっぱり止めた方がいいんじゃないかと思って少し駆け出したところで、あの人は運良くか悪くか行く方向を間違えて、逆側に行くためにまた一度ここの前を通過したのだが、こちらに向けられた照れ笑いなのか、きっといやもしかしたら別れの挨拶なのか、やけにヘラヘラと笑ったのが何だかとても懐かしいような気がしたからここらでやめにしといた方が良いのだろうという見当はついた。

<122>「語りは歓喜なのか」

 後悔の言葉、懺悔の素振りすら見せない、とんでもない奴だ、きっともうとっくに忘れているんだろう・・・。そうかもしれない、大方忘れているのかも、しかし、そういった告白が歓喜と密接であることを意識し、努めてやらないようにしている場合もあるとは思う(この説明自体が既に歓喜を多分に含んでいるが、なるべく必要最低限に止めたいと思う)。歓喜に繋がることを承知して行っている場合は論外として、極力それを排除しよう、そうはならないよう努めて吐露し始める場合でも、ひとたびそれが語り、記述のリズムに乗るやいなや、歓喜を知らぬ間に醸成し出すことになってしまう。語りや記述という体系が歓喜であることを免れえないのかもしれない(歓喜自体である・・・?)。真摯に綴られたはずの謝罪の言葉が、見る者に、「分かったのだけれどもどこか違う」という印象を起こさせるのは、その底に流れる歓喜を何となく、あるいはハッキリと感じる為ではないか。

<121>「宙ぶらりんであれという声」

 それが一般的に愚かさの証とされることが分かっていても、自分が納得していない限り、あるいはぼーんと突然(無理やりにではなく)分からせられるときが来るまでは、賢明なフリをしないこと、分かったフリをしないこと、いつまでも納得出来ない、考えに考えても納得できないときは、生涯愚かさそのものであることすら辞さないこと。どうもそれは一般的だというだけであるかもしれないから(幻想かもしれない・・・)、分からない限りはフリをしないだけでなく、愚かであるとか賢明であるとかの判定を自身に下さない、宙ぶらりんに耐え続ける、外側を壊すのではなく内側で回し続ける、じっと見る、忘れない。忘れないでおくという言葉はどうも脅しとして響いてしまうようである、そうではなくてそれは大切な材料だから忘れないでおく、その言葉以上の意味はないのだが、まあ言わないのが一番いい。立場を決めて、いや立場自体になって発言することの楽さ、宙ぶらりん、決まらないということの苛立たしさ、どうして楽な方を択ばないのか、誰に強制された訳でもなし、そこで楽をしないからと言って他の人より何か偉い訳でもなし、何らかの成果を見込める訳でもない、そこだろう、成果で動く以外のことは有り得ない、という話を当然疑っている、禁(それも勝手に思っているもの)を破ったから別にどうということもないのだけれども、破ってはいけない、じっとして留まれという要請が何故かある、それは私が私に強いていることなのか、何かに強いられていることなのか・・・。