<134>「混乱と狂気」

 破れかぶれも、行き過ぎると普通になる(見える)、以前混乱の極まりを書いたことにも通じる。しかしまあ、「普通になる」というのは普通ではない訳で、「知ったこっちゃあない」と思いながら、何事もなかったかのように動いているのは正気の沙汰ではないのかもしれない。であるから、ちゃんと心配していたり、不安になったりしている人が、取り乱して上手くいっていない場面を見ると、何とも言えない切ない気持ち、申し訳ない気持ちになる。狂気をコントロールしようという不遜な思いに捕らえられている、意味とか目的とかがただの想像でしかない地平で生活が継続していくのは間違いなく狂気だ、そういう訳で狂気は別に特別な例ではない。正気とは、今私たちが続けている生活というものがまさか狂気の産物だとは思っていない、一時的な姿勢のことを言う。つまり何をしているのかと言えば、狂気であることを確と認識しつつ、どうせ狂気なら思うさまに動かしてやろうとしているのだ。当然こっちで利用してやろうとすれば向こうにも利用されるのが常だが、それはそれでいいのだろう、混乱の極まったところに混乱がまた加わろうが、それは大したことではない。

<133>「存在の穴と目が合った」

 どこの誰だか分からない男と目が合った、座っている、しかしどこにいるのか分からない。飲み込まれないためには中心に向かわなければならない、しかし、中心に至るまでの道は厳しい、何より流れが急だ、遠ざかるのは脱落への道ではない、より大きな流れに巻き込まれることになる。それは用意された型か、その羅列、あなたが言いたいことと混ざり合っていやしないか。紛らすことが確かまずいことだと誰かに教わった、いや、教わってはいない、最初から知っていたのか、退屈を紛らすことが退屈になり、紛らわされなくなったそれは何かであることをやめ、ただの曖昧な重さになったのだった、退屈なのか否か、退屈とは何かをほとんど見失った。何もないところに辿り着くとはおかしなことだ、辿り着くのならば何かがあるではないか、穴であるはずのものがどこにあるのか、いや、どこにないのかの見当がつくだろうか?それなら、誰と目が合ったのだろう・・・?

<132>「不可能性の豊かさ」

 何かの立場に立って語ることはつまりパターンの習得だから、習得の早い遅いはあれど、それ自体は別に特別凄いことでもない、考えることとも逆の作業だ。何にも分かっていなくともスラスラと延々に喋ることが出来る。そういうパターンの習得(それはどこに行ってもそうだ)ばかりであることにひどくうんざりして萎えてしまうのは子どもっぽいと言えるかもしれない、萎えていても気にしないのが立派な態度というものだろう。他人にしっかり説明出来れば、その人はその説明できた物事を掴めている、理解している、と言われるが、私は疑問に思っている、一から十まで全く分かっていないことでも、他人にスラスラと説明できる自信がある(そんなものは自信と誇るべきものではないかもしれない)。しかしパターンを経過しない考えというものがあるだろうか? あったとしてそれは重要性を帯びるのかどうかも。パターンというものを嫌がるのは私の勝手だが、さてひとたびそれを外すとなると、まるで考えというものが想定出来なくなることに驚く。そこで断絶、一瞬のきらめき、ただのリズムみたいなものから何かしらを、むしろ組み立てずにそのまま取ることを考えるが、それが続けばまたパターンになる。考えという言葉に囚われているのかもしれない。考えであってもいいし、なくてもいいし、一番退屈しないのは一番退屈なことだということも痛いほどに知っている、つまりはパターンの執拗さ、繰り返し繰り返し繰り返し、行って戻って行って戻って、戻って戻って戻って、一歩も動かないという動き、その不可能性が不思議と豊かに見えてくる。

<131>「圧倒されるときはされる」

 荒さと無関心、というよりは深い落着き、そういうものの同居する中で、普段は全く荒さの影響というものが感じられないところから(あるにはあるのだけれど)、何処まで行っても何があっても、項垂れるにせよ、激流に飲み込まれずにいられる、というよりそんなものに取り込まれるイメージすら湧いてこないのだよ、といって自信を持てているのだが、ひとたびキリキリと荒さが押し寄せると(どうして押し寄せるのかはよく分からない)、そういった思い込みや考えみたいなものが何の意味もなくなるというか、全く無効になってしまうことを感じて怖ろしくなる。自信というのはこういうところで持ってしまっても仕方が無いのだろう。それは、やると口で言っているだけの状態と似ている、もちろん、激流は押さえるし押さえられるのだが、流れが生じること自体はどうしようもない。であるから、落ち着いている状態にあるときに、それをそのまま自分の全体にまで拡大解釈し、いついかなるときも大丈夫だと考えるのはきっと、自信でも何でもないのだ、空想に近い。押さえるにせよ、押さえられないにせよ、まず飲まれる、行動は別として、内側がそれにより圧倒されるのはどうしようもないという、半ば諦めのような身の処し方が、自信そのものではないにしても、自信のようなものと呼べるものなのかもしれない。

<130>「気づかない方がいいが・・・」

 気付かない方が遠くまで歩ける、でも全く気付かない訳にはいかない、歩けなくなってしまう。であるから、気付かないでいるという「意識」を持たなければならない。それは、何か靄のなかにいるような気持ちだ、歩いていることが不思議になる、いや、歩いていないような気もする。つまり、歩いていないと思っている方がいいし、負担も軽いのだが、これはとても不安な作業だ、全く歩いていないのと同じではないかという意識が絶えず・・・。止まっていても進んでいてもどちらも同じだという地平に居た方がいいが、知らぬ間に歩いていなくなっているのではないかという不安が・・・。それにはおそらく終わりがない、また、なくていい。

<129>「全く何もわからなくなるまで見る」

 よく見るということは即ち、内容を失って穴になるまでに見るということであって、判断をすることではない、判断とは根本的に異なるものであると思っている。

「よく見なさい」

と言うとき、それは判断を誤るんじゃあないよという意味で使われていることが多いだろう、それはそれとして、私は、よく見るということを、全く判断の不可能な地点にまで達することと考える。みっともない、情けない、なかったことにしたい残酷なこと、そういうものを穴である私は全て通過させている、思い出すという働きがあってもなくても、常に憶えているし見据えている、それは私がウンと言おうが嫌だと言おうが見据えている、しかし意識的に見る場合、ごまかしを容れやすい、判断をその初めから入れがちになる、それをまた意識的に穴に寄せる、同化する、見ることは見ること以外のものでなくする、よく見ようとする努力はこういう過程を辿ると思っている。

<128>「穴、私がない」

 私が無いというのは、自分を後にして他人に尽くすという話とは関係のないような気がしている。尤も、これは実感であって、昔の仏教の考えなどがそのような利他を指して無私(あるいは無我? 別物?)と呼んでいたのではないのではないか、と言いたい訳ではない、また、利他を否定する訳でもない(ここらへんは無私と無我の違いなど、知識が曖昧で、どう考えていたのかを学ぶ必要あり)。自分が無いと言うとき、私にとってそれは、同一性を保証するものは穴、空洞であるという自覚の存することを指す、物質は入れ替わる記憶は変容する思考(志向も)は移る(全く反対のものを平気で示したりする)、それら確実に違うものへと移っていってしまうものの全体、その同一性を保つものは、何もない穴のようなものでなければ仕方がないという思い(それが何か物質的なもの、働き的なものであれば移ってしまう)、そうでなければとても同一性などは保たれないのでは・・・。そういえば、顔はその人の同一性を保証しやすい、というのも、ああ、あの人だとまず確認するのに使われるのは顔である、ただ、それは穴が多いことによって同一性の認識し易さに寄与しているだけであって、穴そのものではない、例えば赤ん坊の頃の写真を出されて、

「これが幼い頃の私です」

と、もう充分に歳を取った大人に言われても、ああと言われるまで気がつかないことが多々あるように、完全な同一性を示すものとして、顔はやはり不十分だ。

 意気消沈しているとき、意気揚々としているとき、明らかにそのふたつは状態が違うのに、そのふたつの状態が共々通過したことに「気づく」もの、しかし気づくだけで意気消沈をどうするなどの働きは担わない、この隅々にまで渡った視野、大きな目、何らかの働きではない空白の穴が私だ、つまり私は無い。

 だから何だ、自分が無いという自覚、穴であると強く意識することによって何を超えたいのかといえば、例えば自信があるとかないとか、幸福であるとか不幸であるとか、もっと身近にだるいとか元気であるとか、そういうものを解消する、全く関係なくなってしまう身体の動きを掴みたい、あるいはそう動くはずのものと結び合わせたい、私が無いのであればそれは可能だという気がする。