<141>「もし目が飛び出ていたら」

 少々化物じみた表現になるが、例えばもし人間の目玉が、虫の触角のように、眼窩からいくらか伸びた線の先にくっついていて、ひねりを加えさえすればその先っぽについた目玉は、360度どこでも見渡せるようになっていたとすると、鏡の役割を為すものを介さなくても、自分の目で自分の身体を見ることが出来るようになる訳だが、そういう見方を得ると、きっと自身を風景の一部とみなすこと、全体に溶け込んでいると考えることもいくらか容易になる気がするのだが、尤も人間の身体は実際そのように出来ていないのだから、容易になるのかどうかは分からない。この細い線で繋がった先の身体は、はて自分のものなのかどうか。自己とは、見えないことではないだろうか、それは、全部ちゃんとは見えないことと言い換えた方が良いかもしれないが、自己というのは、身体とそれに埋め込まれた眼球との共犯関係の上に成り立っているもののようにも見えてくる。風景になることを拒否する。目に負っている部分が大き過ぎて、私というのは大体目線の位置にいるような感覚があるのだが、もし見えなくなったらどうなるのだろう? 眼球が嵌まっていればそれはそのままで影響がないのだろうか? 見えるということはやはりひどく関係しているのか?

<140>「風景ではないという不安」

 どこに行っても自分だけが本当ではない気がするのは、目の付き方、その方向が問題だという気がしている。つまり、結局それは誰でもそうなのだが、自分以外の人の目は全てこちらに向かうことが出来、自分の目だけがこちらに向かうことが出来ない、というところに由来するのではないかと思っている。その人が孤独な人であるとか、比較的大勢の人に囲まれた人であるとかは、従ってあまり関係がない。目の付き方、向きというものが、周りのもの全てを風景に仕立て上げ、反対に自分自身を、映さないという仕方で(映せないというあり方で)風景から遠ざける。因って、自分も風景の一部なのだと芯から納得することはおそらくない(修練によって越えていくこともあるのかもしれないが、それはまだ私にはよく分からない)。同じ風景であり得ないという不安は、つまり物質的なものから来ているのではないか。

<139>「途方に暮れるという時間」

 途方に暮れていた人、終始途方に暮れ続けた人を笑えないと書いた、それは自分の似姿だ、いや、自分よりも自分自身であったのかもしれない。与えられたものに対して、こちらも積極的に答え(応え)を付与していく、何かを見出していくことこそ生きるという作業だ、と自信を持っている人たちに、ずっと驚いているのだろう(良い意味でも悪い意味でも)。ずっと驚いている人間の顔は、驚きを顕にすることを忘れている、いや、そのように動くことが不可能になっていると言うべきか。延長を続ける長い一日と、断続を繰り返す幾日と、全く矛盾しないということが受け容れがたいのは、頭で考えるからだ、身体は何らの違和も表明していない。あれやこれやの数え切れない程の経験をして途方に暮れる、草臥れた背中、よく分かる、しかし、何も通過していないとも思えるような幼子が途方に暮れていたって別におかしくはない、途方に暮れることから始まることもあるからだ。まだまだこれからであるかどうかはその点関係がない。

<138>「ないなりのものは拡がり」

 ないものをこねくり回す、それが嫌だと言ったって、もちろん程度の問題はあるだろうが、こねくり回せる確かなものというのはないのであって、ないものをそれなりに、こねくり回していくしかないのではないか(こねくり回すとすれば)、というのはまさに『かのように』という処理、非常にシンプルな話であるし、シンプルだからこそということもないのだろうが、大事な処理でもある。しかしシンプル故に、その処理がどうこうという問題はまあ今のところどうでもよくて(それは価値がないという意味ではない、むろん価値というものはないのだが)、

「こねくり回しているものは、ある確かなものだ」

という確信の無根拠さに注目する。それが、ある程度を持つと考えているだけならいいのだが(ないなりに)、ないとあるを混同しているとしたら、それはお粗末だ。振る舞わなければならない、何もないままではとりあえずのものさえ成り立たないからだ、言語を見るとよく分かる。しかしそれを、ないなりのものと思わず、あるものだと取り違えると、どこかで間違える(あるいは最初から)、それを警戒する、何かに至るためでないからこそ拡がるのではないか?

<137>「どうしても生じる隙間」

 困惑していると、ひとつポーンと投げてしまえば良いのではないだろうか? 食べ放題のように、元を取ろうと奮闘するものとして生が現れてきたことがないというか、そういうものに見えてきたことがない。折角とかの言葉と生がどうしても結びつかない(「折角生まれてきた・・・」とは、はて何であろう?)。楽しみ切るという幻想が、徒に強迫神経的なものを煽っているような気がしてならない(「楽しみ切った」とこちらで勝手に決めるだけであり、生きている以上それは身体的実感としては現れ得ないはずだと思っている)。しかし楽しみ切るという幻想は苦しさである以上に希望でもあるから、

「使用できるものが無数にあるのに、それを可能な限り沢山使用しないのは勿体ない、という形で生が現れたことはないし、身体がある以上は仕方がないのだが、どんなにやり切ったと思い込もうとしても、いつも何かが残っているような気がするから困惑している」

とあまりに正直に表明してしまうのは、希望も何もないことによって、他人の不快感を著しく刺激することにもなる。空を切ると最初から分かっているボールなど見たくもないだろう。何かが足りないという感覚、それはあれとこれと・・・と積み重ねていけば最終的に満たされるものなのではなくて、身体構造の都合上、どうしても生じてしまうもの、生涯除くことのできないものなのではないかという気がする。

<136>「穴へ消える」

 今の現実を現実だと思わせない、あれは錯覚だったのだと思わせることでしか組み込むことが出来ない、これはまずいだろうと思うが、それは方法がまずいから方法さえ何とかすればという話ではなくて、そのまずさは根本条件であるから仕方がない。そうすると、大体は飲み込むことに拠る解決となるのだが、おかしいとハッキリ知覚しながら飲み込むこと、そうなっているんだから早くやれよと言われても、それが良くないことは(少なくも自分だけには)明らかだ。ならば脱落ということ、主だった関心事はそこにある。一般に脱落と思われている方向で脱落すると、すぐに見つかるというか、他人の意識に上りやすいので、その方向へ動き出す前よりもより大きく巻き込まれてしまう。忍ぶこと、まるで脱落とは程遠いと思われている位置でストーンと、真暗闇に消えてしまう。誰もが掴めていると信じている、いや距離が近すぎて掴むということすらまるで忘れているようなその中心で、穴にストンと落ちてしまう、その可能性をよく考える。

<135>「あまりに現実過ぎる(ちょっとしばらく点けておこうか・・・)」

 電源ボタンを押すと、テレビだとか音楽プレイヤーだとかが一瞬で切れる、この寂しさ、現実感の物凄さというのはちょっとほかにない、一番現実らしい現実に思える。であるから、つまんないなあと、飽きたなあと点けているときに思っていた場合ですら、消すことを相当にためらうようなことになる。もっと現実的な瞬間、例えばとても楽しかった、嬉しかった瞬間だとか、辛かった瞬間とかがあっただろう、と思われるかもしれないが、それらはよく言われるように、まさに、

「夢のような(あるいは悪夢のような)」

時間であり、現実感とは程遠い。

 その一瞬のシャットダウン、それは大袈裟に言えば、人生に酷似している、つまり、人生とはあの中で演じられる物語ではなく、そんな進行にはまるで関心がない、関係がないと言わんばかりのぶち切りのことを指すのだ。物語ではなく、物語などには関係がないところでのぶち切り。人生には夢があると言っても、ないと言っても、そんなことは分からないと言っても、問答無用で突然切れる、それは意味と言い換えても物語と言い換えても希望と言い換えても全て同じことだ。俺は限られた人生を目一杯楽しむよ、楽しまない奴は馬鹿だねと言っていたって急に切れるし、この世は無意味だ頑張っている奴はお目出度いねと言っていても切れるし、どっちにしたって突然切れることに戸惑い、錯乱が行くところまで行っていたって切れる、そういうものの暗示、あまりに直接的すぎる暗示のように思えて、ボタンを押す手が止まる、見るものもないけれどしばらく点けておこうか・・・。こちらが何を考えていようが関係ないのだ、それは映るもの、映すものの否定ですらない、ただの断絶なのだ。

 どうもゆったりとしているようにしか普段は感じられないのに、非常に素早い瞬間的な世界に(世界にもと言った方がいいのか)生きていたことを知る、それが死だ(他人のそれによって知るのだが)。嬉しすぎることや悲しすぎることは、ちゃんとした現実でありながら、あまりに現実的でない、現実感が稀薄なものだから、求められるし、語られる。一瞬の断絶のような過酷な現実、あまりに現実的過ぎるものは、どう受け止めたらいいのかが分からない。