<148>「持っていないものを、奪われる」

 何かが奪われるという感じが伴う。決して私が持っていた訳ではなかったのだが。何かが奪われた、その人も自分で持っていた訳ではなかったのだが。所有していないものを奪われるはずがないだろう、つまり何も奪われやしなかったということなんだよ、と言ってみたってどうも上手く行かない。所有していない感覚は確かなのに、奪われたという実感は非常にハッキリとしているからだ。

 持っていないものを奪われるということがあるのかしら。もうダメであるということを悟って、速やかに立ち去る。私たちとは違うリズムに移ったのだった。丁重とか救うとかいうことを揺らがせて。

<147>「黄金餅、現実的でないもの」

 現実感のないもの(現実にないものではなく)は、いくら集めても満足できないし、不安もなくならない。だから、あんなに沢山集めておかしいのじゃないかと言っても仕方がない、おかしいのは本人だって分かっているはずだ、しかし訳も分からないほど集めないではいられない。さっき不安はなくならないと書いたが、現実感のないものは不安と相性が良いとさえ言える。得体の知れない不安に襲われているときに狂ったように掻き集める対象としては、現実感のないもの程よく似合う。現実感がないからこそ信奉し、信奉したからこそ大量に集めたものが、ついにあんころ餅ひとつほどの現実的な充足すらもたらさなかった。作った人は特に深い意味を込めていなかったかもしれないが、金を食い物で包んで飲み込もうとするシーンは何かひどく象徴的であるような気がした。代わりに食料を(腐るのも気にせず)気が変になったかと思う程沢山溜め込むことはおそらくない、それはあまりに現実的過ぎるからだ。

<146>「ある空白の一点から」

 ステップアップの考え方に立てば、次第に経験は強度を増したものになっていくべきだし、濃い経験をして、またより濃い経験をして、という進み方をして、完全なゴールではないにしろ、ある程度の段階にまで達することが望ましい、というようになっていくから、当然経験が浅いうちは、

「まだまだ甘い」

ということになるし、経験の濃度が低い、強度が低いままで平気に暮らしている人は、

「本当の人生」

を生きていないことになる。

 しかし私は、ある空白の一点から徐々に湧き出し滲み出ししているのが人間の生であるという考え方に立っているから、何かの階段を徐々に上がって行っているという感覚を持たない、甘い人生も辛い人生もない、経験を濃度で区別しない、当然、何かに達することが重要だとは考えない(結果的に達したとしてもそれはそれだ)、「本当の人生」という観念を持たない。むろん、それぞれに考えはあるから、「本当の人生」なるものが確かに存在して、そこに至らない限りは、未だ本当の人生を生きられていないと考える人がいたとしても、それは別に何の問題もない(他人の領域に入ってきて押しつけなければ)。そういう人は、「本当の人生」なるものを探して、そこについに辿り着いたと思い、そこまで達しているように自分からは見えない人を、

「本当ではないな」

あるいは、

「あの人は全然甘いな」

と思っていれば、それでいい。

<145>「記憶に関する強迫観念」

 記憶に対する強迫観念みたいなものがあり、ついつい憶えすぎようとしてしまい(つまりいつでも沢山のことを想起出来るようにしておこうとする)、勝手に辛くなっていることがある。それはどこかの番組で見たことから始まったのかもしれないし、何かの文を読んだのかもしれない。しかしちょっと待て、そうやっていくつもいくつも常に想起出来なければ記憶に問題があるのだと、本当に自分で思っているか? 小さいときにそんなことを考えていただろうか。想起の量はその時々で限られるだろうが、結局憶えているには全部憶えているから心配ないし、ふとした拍子にあれやこれや実に様々なことを思い出すから大丈夫だ、と思っていてもやはり不安だ、普段は何にも点灯していないからだ。

 考えてみれば、記憶に問題があるという結論を下すのは(明らかにボケてしまっている場合は別として、その境目は)難しい。微妙な判定を必要とするとき、

「そうさね・・・。例えば、昨日食べたものを(時間をかけてもいいから)そっくり思い出せない人は、ちょっと危ないと考えていいんじゃないかな?」

と、専門家らしき人がポーンと例を提示する(こういうものを見ると、私の強迫観念は加速してしまうのだが)。しかし、その例を提示した専門家は、食べ物のことを考えるのが毎日の生活の中で何よりの楽しみになっていて、他のことは大して憶えていなくとも、食べ物のことだけは絶対に忘れることのない人だったかもしれない(つまり、自分の基準から例をスタートさせていたのかもしれない)。また、そんなことは一向憶えられやしないが、他の人からしたら無意味としか思えない数字の羅列は、まあこれでもかというほど憶えられる人もいるかもしれない。そういうとき、例えば、情報量としては圧倒的に数字の並びの方が多いとして、それでも、昨日の食事のことを満足に憶えていなければ、危ないということになるのだろうか? これはちょっと極端な例かもしれないが、現実には、ここまで極端ではないこうした微妙な記憶の方向の差異みたいなものは沢山あって、それをあるひとつの角度からだけ見ようとすれば、必ず失敗するのではないか、つまり、私が起こす強迫観念は(むろん起こされているということをも含む)、ひとつの角度からだけで記憶というものを測れるという神話から来ているのではないか。

<144>「込めているものは同じか」

 言葉を使うということ、同じ言語を使用しているということが、逆に異質さをハッキリと浮き上がらせる。到達したい方向、最初から決めてかかっていることが各々で違っていても、言葉の上だけでは巧みに議論が展開されているように見え、ちゃんとどこか共通の場所に辿り着いたかに思える。しかし言葉を通してちゃんとした順序が整えられていたとしても、後ろに控える意図がまるでバラバラだから、実は何にも組み上がっていなかったりする。愛はあるか、自由はあるか、という字面を見たとき、人はそれぞれ、実に様々なイメージを、考えを創造する。極端に言えば、愛があるという文字列を通過したとき、それを思い切り縛り込むことだと考える人もいれば、完全に解放させることだと考える人までいる。それで、

「あの人はこういうことを愛があると言っているが、それは違う、それは本当の愛ではない、本当の愛とはこういうものである」

とやっている(なんじゃそりゃ)。解釈が様々であるどころか、まるで反対にもなり、「本当の」という言葉を持ち出して固定しようとしても、また違う解釈の人に反駁されて失敗に終わる。こういうあやふやな、人によって定義が真逆になるような言葉をあまり信用していないのだが(確かにあるものだと思われているが、そのことをずっと疑っている)、

「人間は愛を持っているか否かが大事」

とか、

「人間は自由になり得るか?」

などの言葉が発せられると、何かそういう具体的な問題があるかのように錯覚させられてしまう、それは言葉の作用だが、そこに組み込む、あるいは組み込まれるものが各々によってバラバラであるということを見ないと、何かがずっとズレているまま、延々と無用な、というか変な議論を続けなければならなくなる。

<143>「もう少し奥まで」

 この人は一体何者なんだ、それはお前、豆腐屋のオヤジじゃねえか、極端なことを言えば、いや、言わなくてもそれでいいのであって、皮肉ではなく、こういう判断をスパッと出来る人が一番鋭いと思っている。あっちへ行って情報を集めこっちへいって情報を集め、取材し、その人の浅いところも深いところも満遍なく知った専門家が、

「お前何をぐりぐりぶん回してるの? あいつは豆腐屋だよ?」

の一言で、中心をどきりとやられる、なんていうのは、おそらくよくある光景だと思う。

 要するに、分け入れば分け入るほど、よく分からなくなる。どうもこの人がこうであるというのは、深く知れば知るほど見失うようになっているらしい。だから、判断をしようと思うならば、沢山のことを知る必要はない、見えているものをそのまましっかりと捉えればいいのだ、判断をしようと思うなら・・・。私はその点でどう考えているかと言えば、この人物は一体誰なのか何者なのかがどんどん分からなくなればいいと思っている。判断不能の領域に侵入して、確かに戸惑うかもしれないし、戸惑うなと言われてもそれは無理な話だと思うが、そこで、

「まずい」

と引き返すのではなく(賢明な判断ではある)、もっともっと分からない方へ、顔の輪郭があやふやになって、見ているこちらが少し酔った状態になるまで、この人について何か発言しようとしても、ああとかううとか言うばかりで、確かな言葉のひとつとして出てこず、それによって自身も周りの他者をも同時に混乱させるまでに分け入って、何にも分からないところまで進んでいければいいと思っている。

<142>「欠落感の自然」

 全部は見えないはずの自分が、鏡や記録映像や画像によって眼前に現れる、しかしそれがいくら鮮明であっても、リアリティが感じられても、肉感を持った存在、肉体というものが現にここにあるように感じられる存在として私の目に映る訳ではないから、そういったものを介して見えてしまう私というのは、自己というものを崩さないのだろう。つまり逆を言えば、身体に埋め込まれたものではない、ある程度自在な動きが可能になった目玉が(昨日の文を参照)、直に肉感を持った自分の身体というものを眺められたとしたら、自己というものの同一性が揺らぐ、分裂する、あるいは自己というものが(観念が)無くなったり、稀薄になったりしてしまうのではないか、というような気がしている。

 欠落の感情、何かが足りていないという思いは、循環的な在り方と関係しているのでは。つまり吸ったり吐いたり、食べ物を入れたり滓になったものを排出したりと、延々に出して入れての循環を繰り返さなければ生きられない身体を持っている訳だから、出した量に比例する量が入っていない状態に置かれれば、当然何かが足りていない感覚に陥る。また、充分な量が入っている場合、瞬間を取り上げても、循環的な在り方を承知している、つまり出ていく予感というものを確かに持っているから、何となく全ては満たされていない気持ちになるのも当然なのではないか。であるから、現実にある、これこれの物が手に入れば完全に満たされるとか、ある考えの深みにまで到達すれば、完全な満足が待っているということは無く、欠落感は身体の根本条件から来るもので、いつまでもあって当然のものなのだと、今のところは思っている。