<158>「流れていく」

 動かない人物像があるという仮定あるいは思い込みからスタートすれば、その人の本当の姿とはどれかというのを探ることになる。そして、よりショックの大きいもの、印象の強いもの、探る人が最初からそうだと思い込みたかったイメージに合致するものを、その人の本当の姿だと決めていく。当然その決めつけは人によって差が出来るから、

「あの人は実はこんな人なんですよ」

という誰かの決めつけに対し、

「いやいやあの人はそんなんじゃないよ。もっと良い人です。勝手に決めつけないでほしいなあ」

と、また違う人が決めつけで返す。これが不毛であることは言うまでもないだろう。どうして揺れ動くことを認めないのか。交わる人との相互作用で、また一瞬々々変わっていくこと、印象を固定しようとする動きをことごとく裏切る流れであることを。

<157>「核心は」

 凡そあらゆる人の中で、最も周りに流されやすい、自分の考えを持っていないように見える人でさえ、動かされたくない領域というものを必ず持っていると思っている。それは当人が自覚していることもあるし、ほとんど無自覚なこともある。尤も、どんな人を取っても、完全に自覚していたり、全くの無自覚だったりということはなく、そこにはグラデーションがあると思われるが。であるから、流行戦略だとか、全体の操作だとかいうことを考えて、それが上手くいくと、

「人の気持ちを掴むことなど簡単だ」

と思い込むようなところがあるかもしれないが、そうやってあまりにも簡単に動かされるのは、戦略として打ち出されてきたものが、大方の人にとってある程度どうでもいいもの(それは関心がないという意味ではなく、各々の核心部分には触れないという意味だが)だからだと思われる。根幹部分を激しく揺すぶられないからこそ、多くの人が気軽に流れに乗っていけるのだ。であるから、戦略が多くの人のそういった気軽な部分を掴んだことは純粋に凄いと言えるかもしれないが、それがそのまま、人の気持ちを掴んだ、各々の核心部分を動かせたことになるのかは、甚だ微妙な問題だと思っている。

<156>「時間の相違」

 椅子にじいっと深く沈み込む老人を前にして、自身の時間の進みが速いことに翻弄されそうになる。半日と言っていいほどの長い時間を一緒に過ごし、取り立てて何をする訳でもない空間には二度だけ食事が並んだ。本はない、テレビは映る、どこかに出掛けるという感じでもない・・・。皆が続々と帰ってきて、一転賑やかになるその居間で、単調が単調さのために静かに飽きを超えていた先程までの時間を、ぐらぐらと思い出していた。あっちこっちへ動きまわること、変化を次々に取り入れること、そんなことの数々がとんでもなく退屈だと気がつくのには、圧倒的な時間が必要なのかもしれない。一番退屈しないのは、ここでじっとしていることだ。それがまだ、ただの観念でしかない私は、せかせかと全体が動く夕食前の時間を、満足げに見回していた。

<155>「単調さのなかへ」

 飽きさせないものが飽きるものに姿を変えてしまうことほど耐え難いことはない。何故かは知らないが、全てのものは日常性をもたらされる運命にあるらしい。つまり、目先を派手に次々と変えていっても、必ずそれは一定のリズムに捕まる。それ自体(あっちこっちへ動くこと自体)が日常になる。そうすると、ただ退屈しているよりも落差が一層大きいので、なかなかにしんどい。こういうことを考えるときいつも、お釈迦様の手のひらの上から決して逃れられない孫悟空のことを思い出す。どこまで行っても日常の上・・・。そうして結局どこに至りつくかと言えば、ごくごく単調なところへだと思われる。飽きさせないものは、飽きを超えることが出来ない。抑えつけ、そして抑えつけたばっかりに増幅させ、加速させてしまうということを繰り返すだけだ。単調さに深く深く沈んでいけば飽きを超えられるのかどうか、それはまだ分からないが、最初から単調だと分かっていると、落胆は少ない。

<154>「根本問題」

 散々問われているからこの問題はもう終わり、問うても仕方ないし、問うならば違うところを問わなきゃ、で動いていこうがどうしようが、その散々に問われた根本の根本が、依然として切実なものであり続けていることは変わらない。先にいろいろな人が問うていたとして、その軌跡を眺めても、その運動を自分が経過していないなら何にもならない。つまり自分の手足を使って、もう一度初めから、切実であるならば(あると思うならば)、問うてみなくては、ならないという訳ではないが、例えば根本の切実なることが痛切に感じられているのにもかかわらず、非常に沢山の人が既に問うてきたからという理由で、問題を横にズラしていく、違う方向へ拡げていくということをしていると、おそらく徒に(必要があってではない)問題をグチャグチャにして、分かりづらいものにしてしまうことになる。あんなことこんなこといろいろに手を出しても結局のところ、問題はひとつである、何だこれは、と・・・。

<153>「便宜と把握」

 何でもこれひとつで説明できる、うん、様々な要素からその分野で使えるものだけを取り出して、記号(言葉もそう)に置き換えていけば、あらゆる領域のことを、それひとつでとりあえずは説明出来るようになるだろう。故にこれを究めれば、全部のことが分かったことになる、いや、ちょっと待て、説明できることと全部分かったことは違うのではないか。ある現象、存在から、説明できる部分だけを取り出し、そういったものを方々から集めてひとつの体系を築き上げても、理解出来たのはその切り出してきた諸々の断片のことだけなのではないか。また、厳密に言えば置き換えられないものを、ある種の力技でえいやと同じにしてしまうのだから、説明出来るのはある意味当然だと言える(あれもこれも同じと認定するのだから)。でも、現実にそれらは同じではないではないか。勿論、同じでないものを便宜のためにある程度同じものとしてまとめることは有効だし悪いことではないだろう。しかし便宜のためにいっしょくたにしたのは完全にこちら側の都合であって、全部が全部違っている対象のことを、そんな便宜のための整理によって完璧に分かったなどと言うことが出来るはずもない。便宜のために使ったものはあくまでもその範囲に収まる。便宜は便宜として捉えればいいのであって、それ以上の全体が分かるなどと考えるのは良くない。

<152>「社会と説明」

 社会とは説明である。もう少し言えば、社会内の個であることは説明の努力によって保証されている。逆に言えば説明に縛られる。これは非常に萎えることだが、まあ、やらない訳にはいかない。これに萎えているのはおそらく私だけではないだろうと思われるのは、到る所で嫌悪の結果を見るからだ。つまり説明の過剰、誰も何も訊いていないのに延々と自身の説明を垂れ流し続ける、突っ込まれることに対する牽制、積極的な防御。あるいはゴニョゴニョまあまあと濁す。ひとりになれるときはなるたけひとりになる(完全に説明が不要になるのはこの瞬間だけだ)。群れることへの嫌悪即ち説明の嫌悪なのではないか。