<165>「効果的対話の稀少さ」

 話し合うことが必要だ、そうしないと何も前に進まないという話と、議論なんかしていても仕方ない、各々が勝手に思考を進めていく方が結果的に良いという話とは、一緒ではないまでも矛盾はしないと思っている。つまり、こちらの為にも相手の為にもなるような議論の場を作っていくのには、相当に繊細な努力が必要であるということ。どちらかが壊そうとしている場合はもちろんのこと、お互いにしっかりとした準備、注意を持ってして臨んでも、大抵は揚げ足取り、取るに足らない部分を取り上げての要らぬ追及、私的な感情を刺激されての激昂、ただの褒め合い、言葉遊びの類に堕することになる。お互いがそんなことをするつもりなどなくとも、こうなってしまうことが実に多い。

 おそらく、お互いが刺激を受けて、思ってもみなかった領域までジャンプできるような素晴らしい対話も、実際にあることはあるのだろう。しかし、そこまで到達できる可能性があまりにも低く、現実のことでありながら、さながら空想の産物のような姿をしているので、そんなに可能性の低いものを追うならば、極端ではあるが、他人との議論などは一切断って、ひとりで沈思黙考、自問自答していた方が遥かに良いという結論になるのだろう。つまり、効果的な対話が、沈思黙考より遥かに良い効果をもたらすことを知らない訳ではないのだ。しかし、自分がどうこうという以前に、コントロールの効かない他者が入ってくることもあるし、大概が実りの無い、不毛な罵り合いつつき合い褒め合いになることを思えば、ひとりで考えていた方がまだマシだというところに行き着いているだけのことだろうと思うのだ。

<164>「理不尽に襲われるもの」

 怒りというのはとことん理不尽なのかもしれない。理が混じることもあるにはあるが・・・。ほとんど理のないところに理を見よう解釈しようとするところにしんどさはある。自身が向けるもの、向けられるものの両方が、理不尽であることを拒否する、あるいは、きっと何か理由があるはずだと考えると、事態はどんどんと悪化する。

 各々が勝手に、どうしようもない理由で(理不尽としか呼べないもので)怒っていて、各々がそれをそのまま承知している方がいい(無理に理詰めでくっつけようとしてはいけない)。嫌いという感情と同じで、本当に些細なこと、理由の見つからないようなことで簡単に湧き上がってしまうものである以上、あまり重大な事態だと考えない方がいい。

<163>「イメージをきく」

 私が聞く私の声と、相手が聞く私の声とは違う。その事実を録音機器などで確かめる。

「ああ、私の声は、¨本当は¨こういう声なんだ」

と。しかし、私が現実に暮らしているときに、身体の内側にあって直接聞いている私の声は偽物ではないだろう。つまり内側にいるときと、外側から聞くときとで、音声体験が違うだけである。厳密に言えば、

「いや、全然変じゃないよ。あなたの声はこんな感じだよ」

というときの、あなたの声(つまりは私の声)も、聞く人によって(全くの別物ではないかもしれないが)違っている。それは耳が違うのだから(一個の耳を皆で物理的に共有している訳ではないのだから)当然だ。

 また、人が、或る人に対して持っているイメージは各々で異なるが(似たイメージを持つ場合でも、質的な差がある)、そのイメージの差によっても、音声体験には微妙な違いが出来てくる。つまり、人はイメージを聞いている。それは、肉声に先行したり、後から加わったりしながら、その人だけにしか聞こえない、或る人の音声を作っていく。イメージを聞いているとはどういうことか。読書体験による、ある瞬間を思い出してほしい。肉声を一度たりとも聞いたことがないが、好きでよく読んでいる作家がいたとする。ある日、ひょんなことからその作家の肉声を聞くような機会が訪れる。すると、ほぼ必ず、

「あれ? イメージと違う」

という気持ちが起こってくる、この、イメージである。普段、その作家の文を読んでいると、幻聴のように実際に音声が聞こえるような感じになる訳でもなく、また自身の頭の中で独自にその作家の音声を作っている訳でもなく、ただ黙って静かに先へ先へと進んでいくだけで、イメージが自ずと立ち現われ、音声ではない声といったようなものがこちらへと運ばれてくるようなことが起きる。このとき、肉声の混じらないイメージだけを聞いているのだ。イメージを聞くとはそういうことである。しかし、実際に発せられる声というのは肉声とイメージの混じり合いで成り立っているから、初めて肉声に触れたとき、それがイメージだけを聞いていたときと全然別のもののような感じがするのは当たり前のことなのだ。

 そうすると、抱くイメージの変化によって、私のところへ届いてくる或る人の声というのは微妙に違ったものになっていくだろうし、おそらく、或る人が私に対して抱くイメージの変化によっても、私に届く或る人の声というのは多少なりとも違ったものになってくるのだろう。

<162>「生活する身体」

 例えば生活の細部、そこで何が使われているのか、どのようなルールの下にあるのかなどに驚くことはあるだろうが、生活自体に驚くことはあまりない。これは、他人の生活の想像困難性にも関係しているのではないか。つまり密接過ぎて見えようがない、しかし密接であるが故に何の違和感もない。全く普段とは違う生活環境に放り込まれても、すぐに対応できるのは不思議だ。今までずっとそこで暮らしてきたように感じられ、また、去ると一変、そんなところで生活などまるでしていなかったかのように思える。生活とは身体だ。つまりはそういうことだろう。何事かを呼吸していればいいのであって、見えなくてもちっとも構わない。久しぶりの対面で、

「どう、最近何やってんの?」

と訊けるのは、それが気軽だからだろう。それが深刻な一事、つまり相手が何をやっているのかが見えてこないのが一大事なのならば、決してそんな具合には訊けない。だからということもあるまいが、ミステリアスな生活、人物と銘打たれても、あまり興味をそそられない。全て他人の生活は、見えてこないのが当然だからであるし、見えないことが何かとても不思議なことだとも思わないからだ。しかし、興味がないということでもない(というより興味ではない)。そこに確かなひとりの身体運動があることを感じ、実際に訪れればそれをそのまま確認出来るだろうことを想像する。

<161>「本当でない人とは誰?」

 確かに感じられる、というところで済ませられないで、「真の」とか、「本当の」とかを持ち出さずにいられないのはどうしてだろうか。確かに感じられたのなら、それが自分の中でしっくり来たならば、もうそれでいいじゃないか。そこから、

「本当の何々とはこういうことを指すのだ」

とか、

「真の何々とはこうでなければならない」

とかで、自分より大きな範囲を巻き込みたがる、勝手に「本当」を、手前からどんどんと外へ拡げて、全体に及ぼした上で定めたがるのは何故なのだろう。

 おそらくそれは願い、私が確かに感じられるものは大方の人にとっても確かであってほしい、あるいは、これだけ確かに感じられるのだから、それ以外が本当であるはずはないだろう、という思いがあるのだろう。確かに分かったと思える部分が、他人と共通でなくてもいいというのは頭では分かっていても、なんとなくそれはそのまま「本当」へと繋がってくれなければ気持ちが悪い、納得いかないような感じがするのだろう。

 手前で勝手に「本当の」とか「真の」とかを定めてしまうと、手前で勝手に定めてしまった以上当然、それにそぐわないケース、つまりは人物が出てくる。そうすると成り行き上、

「ああいう人物、ないし生き方は本当ではないんだよ」

「本当の経験をしているとは言えないんだよ」

という排除が起こる。しかし、現に生きているということが、どこかで「本当」と交り合うのか否かは別として、存在が本当でなかったり、真でなかったりすることがあるのだろうか。私はそんなことは有り得ないと思っている。つまりどうしても、「本当」という規定の方に(どんなに完璧に見えるものでも)無理があると思っている。

 願いとして定める「本当」は、たといどんなにか多くの人の承認を受けるようなことがあっても、また受けやすい領域があったとしても、決して全体を覆うことはない、というのは確かに怖いことかもしれない。違うことを「本当」だと思ってもらってちゃたまらないな、という場面は確かにあるだろう。しかし、当人が確かに感じてしまっていることを、どうやって動かせるか。それは、その人にとっては確かなのだ。全体を覆える「本当」などない、ということが怖くないとは言わない。なるほどそれは怖いだろう。しかしそれよりも、手前勝手に「本当」を拡げて、「本当でない人」を無理やり生み出してしまう処理の方がよほど怖いという気もする。

<160>「幸福ですか」

 人物について間違うということはない、お前は分かってるなあ、という表現のされ方に対する違和感、本当というものの頼りなさ・・・。こういうことをよく考えるが(以前に書いているが)、幸福を目標とするという話も、同じ疑問の範囲に属する。

 あなたは幸福ですか、ということが尋ねられる。それによって幸福であるとか不幸であるとか、どちらとも言えないとかの回答が出てくる。ああ、幸福だ(あるいは不幸だ)と感じているんだねえ・・・。この過程の何か、あるいは全部がおかしくはないだろうか。この質問を受ける立場になって考えてみる。

「あなたは幸福ですか?」

・・・。幸福かどうか、率直に思うところを答えればいい。そりゃそうだ。しかし、この質問の前に立たされるとき、あるいは答えた後にいつも、

「幸福だと答えても不幸だと答えても同じことだ」

という感想を持つ。それは、幸福だとか不幸だとかいう言葉が漠然としすぎていて、よく分からないからだ。はい幸福です、いいえ不幸ですと答えてみたところで何も、本当に何も答えられていないような感じがする。私の気持ちは、これらの言葉では全く表現できない。幸福ですかと尋ねた人と尋ねられた人、そのどちらもがこのやりとりからは全く何も掴めなかったのではないか。

 生というのは揺れ動くものだから、問題が分かりにくくなるのかもしれない。しかし、死んでいった人を思い返してみたところで、幸福だっただろうとか不幸だっただろうとかの分け方はとても出来ない(分けるのが可哀想だからという意味ではない。技術的に不可能だという意味だ)ことを感ずるだけだ。おそらく、人の一生を測る尺度として、幸不幸は適切ではないのだろう。それは生きている人を見る場合でも同じことだ。そもそも人生に尺度というものを持ち出すことが適切ではないだろうことを考慮しても、なおその上で特に適切ではないような気がする。すると、それを目標とする考えは、当然こんがらがるだろうことが予想できる。

<159>「怒りに翻弄される」

 何かのきっかけで、どこからか怒りが湧き起こり、激流となって荒々しい渦を巻く。カーッと来てるものと一体になるようなところもありながら、主に翻弄され、戸惑っている。こういうとき、いつも不思議な思いをする。翻弄されるなんておかしいではないか? いや、別におかしくはないのだが・・・。それは、おそらく多くの人にとって尋常普通の経験であるだろうから、おかしなことが起きている訳ではない。しかし、冷静に考えて、戸惑わされている事実は何を意味するのだろう? 戸惑わせ、翻弄しているのは誰か? 怒っているのは私ではないのか・・・? 

 これは感覚的なもので、怒りの積み重なりは、私の中に、ある種の道を作っていると思われる。それは確かな形跡として残っているのか、それとも、もっと意識や無意識に近いものなのかは分からないが、普段はその道の流れは、何ものかによってせき止められている。しかし冒頭で述べたように、何かの(それも嫌な)きっかけが、その止めているものを外すことがある。そうすると、止められていた流れは、怒涛のように走る。長年の月日が形成してきた怒りの道のあれこれを総ざらいして甦らせ、怒りの運動は沸騰する。このきっかけを与えるもの、あるいは与えられて止められず、流れさせまた道を形成させてしまうミスを犯したのは私かもしれないが、作られた道を物凄い勢いで流れるものに関しては、完全に私の範囲、力を超えてしまっている。それでどうかして、怒ったはずの私が、より強くその怒りの方に翻弄されている、ということが起きるのだろう。