<172>「ずれて、」

 まるで同じことを言っている。内容に少しくの差はあれど、また同じことを考えているし、また同じ通路を進んでいる・・・と思うのだが、ほんの少し前のことでさえ、もう何と言っているのか分からない。こんなにも変わってしまうのだろうか。同じことを言おうと思ってもまるで言えない、とすれば毎日同じことを考えて書いていればいいのではないか、極端だが。繰り返すとはそういうことなのかもしれない。つまり繰り返そうと思っても同じようには出来ないことの確認と、ズレと、それぞれで。純粋に身体的なものだから、同じ状態という、ブレない何か、みたいなものが神話なのだ。

<171>「混濁のヒ」

 意識に上ることを信頼しすぎたり、意識に上らないことを信頼しすぎたりすることには無理がある。頭を強く働かせさえすれば真理に至れるだとか、無意識に抱いてしまっている気持ちの方が本当だ、という考えはどちらも極端なのだ。上ってくるものと上ってこないものにはそのままの違いがあるだけであり、どちらかが本当なのではなくて、その混ざり合いだ。それでは混濁したままではないか。理性とか知性というものは、もっと強く、スッキリしているものだ。いや、知性なんかどうでもいい、無意識を根掘り葉掘り調べてやるからちょっとそこに座って待ってろ。訳が分からなくなって混乱している頭など弱い頭だ・・・。どうして混濁したままを混濁したままのものと見留めないか。意識に上らない気持ちが本当の気持ちなら、どうして簡単にそれを捨てられるのだろう? 素直じゃないから? はて素直とは・・・。食う寝るという基本的なこと以外では当たり前に欲望と自身との不一致が起きる、ということは、つまり混濁しているということ、そのままシンプルに分裂しているということではないか。

<170>「親指が痛いぐらいのことで」

 親指がいたい、それも、ちょっとしびれを感じているぐらいの程度で、どこまでも押して行けたら面白いだろうな、いや、そういう場面てのは意外とよくあるような気もする。相手が深刻な家庭問題、またひとりは大病、またひとりは大いなる憂鬱を抱えているところへ、プレゼンテーションと熱量で、どんどんと入って行く、圧倒していく、親指が痛いぐらいのことで。あー痛い痛い痛い。

 実際圧倒されるだろう。あんまり勢いが盛んだと、

「俺の状態の方が深刻なんだけどな・・・」

なんて考えは、スーッと後ろの方へ退いていく。あんまり大袈裟なんで、笑ってしまうかもしれない。周りの人の方がよっぽど深刻な状況にあるということに気がつかないのはただ鈍いだけだが、気づいている、よく承知している上で、ぐいっと踏み込んで加速出来る人は良い。そういう人は知らず知らず、周りの人を助けるかもしれない。

<169>「大袈裟なこと」

 大袈裟になることをどうも挫かれるように出来ている。辛いことや悲しいことがだんだんに自分の中で大袈裟になろうとしているのを見ると、笑ってしまう。苦痛が随分と簡単に快楽へと接続されるのを覚えて、何となく胡散臭さを感じるようになり、そして幸不幸というものがよく分からなくなった。簡単に転倒するではないか。一生懸命怒っていたことを思い出し、どうしてあんなに一生懸命になっていたのか、自分でも不可解でヒクヒクする。大袈裟が似合わないのは私だけの問題か全体の問題か(そんなことはどちらでもよい)。規模が大きいというだけでは必ずしも大袈裟にならない。規模が大きくたって自然なものは自然だ。大袈裟なことがおかしく感じるというのはつまり、大袈裟なことというのは存在しないのでは。しても不自然。

<168>「原初の重さ」

 何も分からない存在はどのようにして歩むのか。それはお前の歩み方をよく見てみれば分かるだろう、分かるか? いや・・・。倦怠感は純粋に身体の問題だという気がするのだ。同じ感覚に貫かれていながら、全く元気がなかったりだるかったり、一方でピンピンしていて元気が溢れていたりするのだから(どちらかだけを嘘としたり、どちらかだけを本当とすることには無理がある)。しかし、頭も身体なのだ・・・。

 落ち込んだり、飛び上がったりする理由を知ることはない。考え方の変化によって倦怠を抱えるようになったという思い込みの無理を、幼少時の虚ろな瞬間が伝えている。絶対的な重さを(他のものとの比較ではない重さ)確かめたときから、これを背負い上げる倦怠を感じていたはずで、それはどこまでも前まで遡れる気がする。それこそ、激しく泣き叫ぶ前まで・・・。

<167>「ひとつの世界で人を掴む」

 受容する身体がひとつひとつ違うのだから、

「お前はあいつのことを何にも知らない」

までならまだしも、

「だから、あいつについてのお前の認識は間違っている」

までいくと、それは違うのじゃないかなと思う。或る人物のことが分かる、そしてその分かり方は大方の人にとって共通のものになるはずだし、その共通の分かり方からズレている人は当然、或る人物についての認識が間違っていることになるはずだ、という考え方は、人々が皆、同じ一個の身体に収まっていなければ成り立たないものだと思う。違う場所に立っている、違う目で見ている、また、見るということは働きであることを考え合わせれば、各々の分かり方というものがそれぞれにあって然るべきではないか。そして各々が独自に何かを掴んでいる以上、間違うというのはあり得ないのではないか(つまり、或る人物について共通の、正解の認識というのは存在しないのではないかということだ)。

 例えば、自身の情報の一部を隠すことによって相手を騙しおおせたことにより、相手は、自分について間違っていたという判断を下そうとする。しかし、自らが言い出しさえしなければ相手が知るべくもないことで相手を欺くことなど易いことで、また、その隠している部分が知られなければ、自分というものを本当に知られたことにはならないと考えるのは、ひとつの思い込みでしかない。何故なら、人間は統一されて在りながら確かに分裂していて、時には完全に矛盾するように見えるものをも同時に含んで存在するもので、また各々の目の働きによって、たったひとりの人物であっても、凡そその眺める目の分だけは違って見えてくることが可能なほどには多様な存在であるからだ。

 つまり、自分が或る部分を隠しておけば、自分の本当の部分は露呈していないと考えるのは、他者の目の働きを過小評価しすぎている、自分を僅かの面からなる存在だと勘違いしている。自分も全く知らない自分の面、隠す隠さないなどの及ばない領域が、他者の目に曝されていて、存分に眺め尽くされてしまっていると考えるのが妥当だろう。

 ひとつの世界を構成する他者は、その眺めるという働きによって、一瞬にして何かを全面的に掴む。あれこれの情報が呈示されていたりされていなかったりということが一体何であろう。それはひとつの世界たる他者の目にはどうでもいいことに映る、いや、そもそも映らない。見たときに何かしら揺らぎ難いものを掴んだならば、それがその他者にとっての全てではないだろうか。むろん、それは全員に共通のものを掴んだということではない。他の人はまた他の人の領域内で、何か違ったものを全面的に掴むはずだ。

<166>「参加する姿勢を見ている」

 会話は雰囲気の確認、関係の深化が目的であるから、相手の話の内容をしっかりと聴く必要はない。むしろ、話の内容に拘りすぎると、会話は発展しない。大体が会話の出発点、きっかけとして出されるものに確実に返そうとすると、

「ああ、そうなんですか」

で終わってしまうようなことになる。それよりほか言いようがないからだ。この間こういうことがあったとか、ちょっとここがこうなんだよねえ・・・などという発話の「内容」に拘っていてはいけない。大事なことは、自分も参加することである。つまり、こういうことがあったという話題が提供されたら、その話の内容には適当に相槌を打って流しておいて、

「それならば、私もこういうことがありましたよ」

と、何かを提供し返していかなければならない。あ、今勝手に喋り始めちゃって、相手の言っている話を無視しちゃったかな、などと考えなくていい。それを考えると容易に参加できなくなる。

 この、参加する、自発的に何かを提供し合うことだけが、会話において唯一大切なことだと言い切ってもいいぐらいで、会話の当事者たちは、相手に、自発的な参加、提供の意思があるか否かということを主に気にしているように見える。そうすると、全く噛み合っていないのに、延々とお喋りが続けられる人たちがいる理由もよく分かる。究極のところ、内容などどうでもよくて、相手の参加姿勢が確認出来ればそれでいいからだ。

 であるから、こちらとしてはしっかりと内容を把握し、相槌を打ち、聴き洩らさまいと努めているつもりでも、それだけにとどまり、

「私もこういうことがありましたよ」

という、内容無視の遮断的介入にまで移行していかなければ、相手は、私に対して、会話をしようとしていない人だという印象を持つことになる。まあ事実、そのような発話の形が得意ではなく、かつ、思考の交流に比してあまり好いていないようなところがあるから、その印象は間違いとは言えないのだが・・・。