<182>「えい」

 嫌な陶酔、嫌な酩酊というのはやはりあって、それは酒を飲んでいるときを考えれば一発なのだろうけれど、酒以外でもそうだ。自己批判にしたって(勿論他者批判もそうだ)、正義感の発露にしたって、必ず酔いというものが伴っていて、それを感じて後悔するからなるべくやりたくないのだけれども、時々説明したくなる。酔えるということを知っていて動き始めてしまう場合なんかは特に悪い。

 陶酔はそういった邪なものではなく、純粋なものでなければいけない。つまりそれを得ようとして何か動きを為すのではなく(それをすると嫌な酔いになる)、思いがけず、気を抜いているところへふっと訪れる陶酔でなければ。訪れるものを待つものだ、というのはそういうことなのだろう。よって、陶酔状態に予期しないタイミングで入っても大丈夫なように準備だけしておくこと。積極的に引っ張ってこようとしたり、やたらに飲んだりはしない。意外にも、吹く風の温度が丁度良かったという。

<181>「自己批判、」

 自己批判が目的ではなく手段になっていることがほとんだと感じる。つまり厳しい目を向けているのではなく、他人を黙らせる為、介入させない為に、自己批判を手段として持ち出している。黙らせたいときは、相手に直接、

「黙れ」

と言ったり、何かを説いたりするよりも、自己批判を繰り広げる方が効果的であることを、これでもかというほどよく知っているのである。

 手段になっていようが目的になっていようが、批判をしているのならそれでいいではないか、いや、他人を黙らす目的で、自己批判を手段として持ち出すときには、ダメージなんか全くもって負わない。何もきつくない。ひとつそこに挟まっているから何ともないのだ。純粋に目的として自己批判を繰り広げるのは大変だ。というより、そんなことを為し遂げた記憶が一度もない。いつも手段だ。それも目的にしようと思っても、どこかで目的は他のものに入れ替わっていて、気づいてか気づかずしてか、揚々と手段としての自己批判をし、何かを成したような気になっている。

<180>「あ、ちょっと、その目」

 怖い視線というのは、実はあまり大したことがないのかもしれない。いや、確かに怖いのだが、危機として非常に分かりやすいから、対処の仕方も分かりやすい。それより、何だろうあの不気味な睨みは。ぶるぶるという慄えが背中から足にかけてやけにゆっくりと走り、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。まるで対処の分からない、嫌な夢のような色みの目、その柔軟な直線。そこから外れれば避けられるという訳でもないのだ。振り向く前から、こちらに振り向くのが分かった。何か危害を加えられるかどうかという予想だったり想像だったりは、働いていない。そんなことは関係が無い。ただただ、気味が悪い。避けよう、危ないという意識すら殺がれてしまう。

<179>「凝視の」

 よく見なさい、というのはそうすればきっと何かが得られるからではない。何かの為ではない。ただ見るということ。残らず全部を見つめるということ。では何故そうするのか。何故というものはないのだ。どういうことだろう。言われただけでは分からないが、ひとりに還ってやってみれば、それなりに、今の時点なりに分かる。ひどい振舞いも、良い行いも、自他の別なく見る。自然に口は閉じるだろう。それだけ努めていれば、よく憶える。ただ残るというよりも、もっと確かな強さで。そうやって強く刻まれたものはよく蘇り、再び口は閉じるだろう。見つめすぎて一切の行動が不可能になる地点から、ジャンプアップしてまた何らかの行動が可能になるその一連を。何かを掴んでいるのに、何を掴んだのかさえ気がつかないくらいに、働きでなくなる働きのその目を。

<178>「欲望に名前はない」

 欲望が迷いであるというのは、そういうことではないか。つまり欲望に惑わされるから気をつける、しかし何故惑わされるかというと、欲望自体が混乱している、欲望が迷っているということだ。これは、無意識をイコール本音に安易に結びつけることに対する疑問から起こったのだが、抑えつけられていたもの、気がつかなかった欲望などが診断や分析で明るみに出る。しかし本音であったはずのその欲望の解消が、あろうことか、後悔を呼び起こしたり、何か違うという気持ちを起こさせたりする。これはどういうことか。欲望自身、訳が分からないまま盛り上がっているからだ。静かな状況で、

「これをやりたい」

と立ち昇ってくるものばかりでなく、むしろそういうものは少なく、不安や怒りや焦りや昂りや、そういうものの力によって何だか分からないうちに欲望というものが形成される。しかし立ち上がっても欲望は曖昧で混沌としていて、不安定に慄えている。行先が分からないだけに出口を求めて殺到している。

 欲望を去るというのは、自身が何も欲さないように去勢していくというより、それ自体混乱の賜物、ストレートに本音とは結びつかないということをしっかり見極めなさいということなのではないか。無意識の現れとして夢が持ち出される。その夢から本音を汲みとる、隠れていた欲望を取り出してくる。しかし取り出してきたものはこちらの都合もあるからやけにスッキリしている。現れ自体であった夢はどうだっただろうか。全体がぼやぼやして混乱していたのではないか。それをそのまま見なければいけないのではないか。不確かだったという事実を。

<177>「自分というのはいつもいつも時間からほどけるのです」

 結局何ものかにはならない。何者かになるようには出来ていないからこそ、段階、地位を作る。尤も、結局何者でもなかったとしても、そういう位置を設定して、自身の振舞い、周囲の振舞いがそれに沿うたものになって行けば、本当に何者かになったような現実状況に入ることは出来る。問題は、それがイリュージョンのようなものである以上、頻繁に解けてしまうということだ。一日の終わり毎のような短いスパンでも解けるし(秒などのもっと短いものもあるが)、長年の勤めの終わりというような長いスパンでも解ける。要するに、根本は何者でもないということに、表層部でどこに位置していようが触れ続けなければならない。誤魔化せるのならそれも良いのだろうが、それは人間の生が物語のように進んでくれればのことでもある。実際は、自分の中で、出来事があっちで拡がりこっちで拡がりして、バラバラに動いている(収拾はつかない)。止まっていたものが突然動き出したり、一方全然関係無いところで別のものが急に止まったり。そして瞬間々々が全てだ。つまり長い年月誤魔化していたからといって、解けたときに全的に、何者でもないという事実にぶつかってしまうことは避けられない。それは、瞬間々々ごと、常にと言っていいほどぶつかっている場合と実はあんまり変わらない。何故なら瞬間は全的で、リズムは断続的で、線はバラバラで、始点から終点に向けて真っすぐに一本の線が伸びている訳ではないからだ。何者でもないということを確認することが、果たして辛いことなのかどうか、それは疑っている(ぶつかるなどと言ってみているけれど)。

<176>「視線の無時間性」

 その日、私は歌をつけていた。ゲームに付随する応援歌のようなものを。いや、歌は友達がつけていたのかもしれない。可笑しくなって続いた。その楽しみに夢中になる一方、何か幼過ぎるような、似合わないような感覚に陥り、事実そのときは幼かったのだが、今の私と目が合った。いや、そのときに、先にいる今の私を見ていたのかもしれない。ちょうど今目が合ったと思うのは、今思い出したからだろうか。そのとき先の自分が否応なく意識され、幼い今が本当なのか、先で見ている年輩の目が本当なのか、いずれにせよ、そのときはどこまで遠くなのか分からなかったものが、今ここで嵌まったということなのだろうか。

 実年齢、というより、現在の皮膚感覚とは合致しない視線、それも自分のものとぶつかることがある。確実に記憶に深く残るのが分かるが、見つめられたものがいつ再び上昇するのか、見つめた時期といつ出会うのか。ともあれ何かを見ているということには時期のズレがありそうだ。今の自分が全部を見ている(見ることが出来ている)訳ではない。