<194>「同じ点の揺れを」

 同じ物事を明るい方向と暗い方向とから眺めることの出来るのは、眼の機能でもあるのだろうが、実際に物事がそのふたつをそもそもの初めから持ってしまっているということもあるのだろう。それは生と死というものがしっかりとくくりつけられているからだと思うのだが、もちろん生が明で死が暗という訳でもない。関係性は転倒し続けている。富みに富んで栄華を極めている分だけ、不安も増えれば死に対する恐怖も増える、現実に執着するようになる。しかし現在享けている栄華が、では大したことのないものだよねとなるかといえばそうとばかりには決まらず、それはそれで大変満足の行くものだったりという事実もある。逆も然り、貧すれば貧するほど、死などというものが近くなり、それは光でもあれば、深い暗闇でもある。だから、何はともあれ利益だ名誉だ、金が沢山あればという構え方も、どこかに無理があるという気がするし、貧こそ生活とする頑張り方も、それはそれでまた無理があるというか、もうそういうことはどちらでもいい(極端を主張しなければいけないということは)。どのような立場になってもいいし、ならなくてもいい。一個の身体からは出れないのだし、それは常にひっくり返りの運動の中にありますから、どこに行ってもいいということになると思うのだ。

<193>「揺れたままの人」

 動揺しないように、みたいな、無理ではないけれども頑なな構えを取らないように。動揺させられると、止まらなければいけない、引っ込まなければいけないと思うから、動揺してはいけないと思いたがるのだが、実際動揺してみれば分かるように、そのままで止まらないことも出来るし、引っ込まないことも出来る。全くと言っては語弊があるかもしれないが、動揺は身体の静動にはほとんど関係がないのだ。人一倍動揺し、させられて、その揺れ動きで大きな幅を取るようなことを考えてみればいい。怯えた面している奴が、幾分図々しいものだから、どうしても笑ってしまうだろう。

 歩くということはシンプルなのであって、右足、左足と、しかし気持ちが揺れると止まるようなこともあるので、それが自然ではあるのかもしれないけれども、何だかんだ裏切れるのだ。裏切りというのはこういう場面で使おう。びっくりしたーと言いながら、ちっとも歩を緩めないでいる。それを不自然でなくやる。歩くというのは日常だ。つまりいつでもその日常性を維持するには・・・。驚きを引き延ばせばいい、動揺を執拗に煽って、盛り立て続ければいい。

<192>「知らない会場で」

 贈与や恩恵のことを論じるにあたって、先日先々日辺りから触れている、いわゆる贈与の不愉快な面について詰めていないものを見ると、どうしても不満を覚えてしまう。それでは不十分だという気がするのだ。また、珍しく触れられていると思ったら、それを不快に思うのはけしからんという話だったりで、ガッカリしてしまうのだが。自然と違い、人間があえて恩を施すことにはどうしても不自然さが付き纏い、容易に着せることの方へと転換することを考えれば、不自然な贈与がもたらす不快感というのを根本問題として、けしからんと切り捨てたりせず、かといって過剰にその不快感を強調したりせず、当たり前に扱っていくべきだと思っている。これは、親子間の難しさの要というか、親になることにより生じる困難のうち、最も重要なもののひとつだという気がする。何か、施しを行うことには魔的なものがあると昨日も書いたが、恩恵は、それを施す側が無自覚なときに自然に通うことを考えると(太陽や水)、子に対する親などという、特に自覚的な場面というのはもう、何かがおかしくなってくださいと言っているようなものである。自分の与える恩恵というものが見え過ぎる。

 例えば、こういうイメージを共有する。突然、望んだ訳でもない会場に、気がついたときには連れてこられていた私。何だこれはと思って帰ろうとすると、会場にいる誰かから、もうお前は死ぬまでここからは帰れないと告げられる。その上、お前はこの会場ではひとりでやっていけないのだが、仕方がないから手伝いを俺らがやってやる、だから感謝しろよ、と、嫌そうな、めんどくさそうな表情で言われている・・・。こういう場に立たされたイメージを持ったとき、凡そどのような感じを抱くかについては、人それぞれであまり差はないだろう。こういう経験はしたくない、あるいは誰かにこういう経験をさせることは望ましくないと。こういうことは、

「例えとして見ている」

ときにはよく分かる。しかし、これがそのまま実際の親子関係となると、途端に分からなくなる(本当に、本当に自然に、「育ててやった」とか「面倒をみてやった」とかの言葉が使われてしまう)。ともすれば、不愉快な贈与を経ていたりするかもしれない新たな親にとって、分かりやすく自分の施す恩が見えるようになるという事実は、より一層の魔的な魅力として迫ってくる。圧倒的な快楽によって、かつての不愉快な贈与の記憶は完全に覆われてしまい、もう見なくてよくなったように思われるからだ。しかし、それ自体で解決されていなかった問題は、見えなくなったことによっても解消されることはなく、その下で、快楽を得ようとする暗い欲望へと転換されている。すると何が起こるか、同じような不愉快な贈与を自分の子どもへと知らず知らずのうちに送るようなことが起こる。

 不愉快な贈与のことなんか、さっさと自分が親に回ることで解決しちゃいなよ、というのは実は何の解決にもなっていない。自分の不愉快をそのまま次へと投げてしまった、背負わせてしまっただけだ。そして、必ずそれは自分へとはね返ってくる。

<191>「恩の困難」

 恩を意図的に施すことの不自然さ(故にやるべきではないという話ではない)、難しさを考えると、例えば托鉢などの修行は、施す側の困難の方が大きいように感じる。施すことも修行だ。同意した訳ではない招かれは、施す側がうんともすんとも言わず、施していることにすら気がついていないことをもってやっと納得できる。その間では関係は健全になる。しかし、勝手に招待されたあげく、施す側から、これだけのことをやったげた、あれだけのことをやったげた、それを何らかの仕方で返さない奴はちょっとね、予定はあるんでしょ?とやられれば、当然その間の関係は上手く行かなくなる。当たり前だ。こんな簡単なことを、おそらく頭では分かっていながら、身体ではいつまで経っても分からない(恩を施せるようになるのには時間がかかる、大抵は着せるだけに終わっている、というのはそういうことだ)。おそらく、何か施しを行うことには魔的なものがある。支配的な快楽を得られるが、自足することが出来ず、自然がまさに自然に行っている施しの態度とは随分かけ離れた態度で施しを行っているということがよく分かっている(半ば着せている)だけに、見返りの要求、何かを返してほしいという欲望は逆にヒステリックなものになっていく。

<190>「恩義、」

 感謝の連呼が防御、威嚇に見えてしんどいということを以前に書いた。何に対する防御か、威嚇か。恩が、施されるのではなく、着せられることに対する防御だ、威嚇だ。どうして防御や威嚇の声が大きくならなければならないか・・・。

 礼儀として、何かの施しがあったことに対して感謝を述べるのは良い。しかし、それは最低限でよいと思う。基本的には、有難さを感じられていればそれでいいのだし、施す人もなるたけそれが施しだと感じていない方が良い(自然との関係・・・)。常にその気持ちを示していなければならないというのは、恩は施されるものだということに対する信頼が揺らいでいることを意味する。つまり、施した恩は忘れられていてはならない、常に想起されていなければならない、施したという事実をいつも確認出来なければ気が済まないという意識。それはしかし恩を着せることだ。着せるぐらいなら何もしない方が良いくらいだが(ひどい憎しみを育てる)、恩など施した瞬間に忘れる、施したという意識すらないままの方が良いのだが・・・。それに真っ向から対立する姿勢が、感謝、感謝の連呼である(しんどい・・・)。太陽を見る。きっと全ての基本になっていることすら知らないだろう。恩を施せるようになるのはいつか(施したと思ってきたほとんど全てのものは、ただ着せてきただけだったのだろう。なかなか自然のようにはいかない、時間がかかる)。

<189>「具体的な動きを見て」

 あまりいじくり回すのも良くないのだろうが、心の問題ほど不可解で、また面白いものもない。気持ちが萎えていたら出来ないものも、また盛り返してくれば出来る。それはすごく重要な移り変わりで、萎えているときに無理に動こうとするのは良くない、というのは経験的に分かるのだが、はて身体の作りが変わってしまう訳でもなし、違う場所に移されるのでもなかったとして、気持ちの変化で行動が可能か否かが決まるなんて、何とも変な感じがするではないか(別に変ではないのだが)。時折夢想する、気持ちが萎えるとか盛り上がるといったことに関係なく動ける身体を。それは自由ではないか。別にそこで自由になったからといって何をしようということでもないのだが。そうやって動く自分を想像して、軽くなった気持ちになる(いや、実際に軽くなっているのかもしれない)。ひどく落ち込んでいながらも、やけに力強く行動している、それは何だか不気味であるかもしれない。しかし、それはそれでまた愉快ではないか。

<188>「増える円、回る円、重なる円」

 時間は出来事や時代の分だけ在り、新しい出来事に出合えば、私の中のどこかに円みたようなものが形成され、後、すぐに回り始める。最初のうちはまだ円も少ないので、全てが回っているが、しばらく経って円も増えてくると、あるものは止まっていたり、あるものは動いていたりというようなことになる。幼少時、時間が長く感じるのは、回っている円の数々を逐一見渡せて、かつまたじっとよく見ることが出来ているからではないか。年を経て、円の数も増えてくると、あまりどれもに目を配ることが出来なくなったり、あっちゃこっちゃ見ることに忙しいので、ひとつの円をよく見るということが少なくなり、時間の過ぎ方も早く感じるようになるのではないか(よく物を眺めているときと、なんとなく見たり見なかったりするときとでは、時間のスピードが違うだろう。つまりなんとなく物を見ていると、気づかぬうちに、充分に吸収できぬうちに、流れてしまうようなことになる)。

 止まっていた円がそれ相応のきっかけで動きだし、また現実でもその円に関係するようなことに出合うことによって、照明がその円に充分に当たるようになると、まるでこの円が本当の私の中心だったような気がしてくる。この場所が基本の場所で、他のところを回っていたのは、全てここに帰ってくるための寄り道だったのだとすら。しかし、その場を物理的に離れることで、強烈な光も消え、再びその円が回ったり回らなかったりというリズムに還ると、中心の場所がそこであったなどというのはまるで勘違いであったかのような気がしてくる。しかし、勘違いであるかどうかは分からない。円の数だけ中心、基本の場所を私が持っているということかもしれない。時間について私はそんなイメージを抱く。