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<201>

 何かの条件を挙げる。それも、まだ自分がやっていないものを。そうして、一度でもやってしまった人達、それを経過してきた人達を、

「もう駄目だ」

と断罪する。ここには嫌な快楽が伴う。戻りようのない人達を、戻れないのなら駄目だよと言ってしまって、自分はその基準では全く駄目でないところにいる、ということには何か耐え難いずるさがある。

 自分の考えを持っていたり、これは良くないという基準を持っているのは別にいいだろう。しかし、それに当てはまらない人を、もう駄目だといって切り捨てていくことには、傲慢の一言では済まされないような醜さがある。

<200>

 どうしようもないだろう。どうして救われなければいけないのだ。肯定と否定を頼りにしなければいけないというところに不自由がある。完全に切り離されることを望んでいる訳でもないのだろうが、否定的な場は勿論のこと、肯定的な場にだって長くは居られない。性分だ。承認がなきゃいけないとか、肯定されていないと、とかの類が大して響いてこないのを知っている。それはふいに腹の辺りが温まったと思うと、全体が安らかな気分になることを知っていて、それは外的な事柄とほとんど何の関連もないことすらをも。やけに苛立ちを覚えたり、やたらに競うような気持ちにさせられるのは、全体から見れば僅かなことで、そんなことはまるで関係がないということをちゃんと知っている。おそらく皆が皆ちゃんと知っていることであるだけに、あまり露骨にそれを表明することは憚られるのかもしれない。そうして余計に苛立ちをアピールするようなところが・・・。

<199>

 寝室は暗い方が好い。ようく見えない、黄色や白で不愉快だ。落ち着くことを考えたい。目で見る必要の物事、読み、書き、笑い・・・。意識の代表、それが明かりだ。明るいっぱなしでストレスだ。意図的に休め、痒みの発露。ぼうっとしてくるまでに掻くことしかないことを思って、休みが優位になるためにいつまでもいつまでも起きていることを検討すると、どうしてもそれは疲れるのだった。眠くもないときによく眠る、眠くもないときによく眠るから、よく眠ったという感じもないまま、黒と緑で憂鬱だ。一度目の朝、歩いても歩いても通りの雨が、たらたらたらたら。道理で模様が下へさら、上へさら、混合同士の透明度、また・・・。

<198>

 施しを受けても特に何も言わず礼もせず、施した方もそれを当たり前と思っている・・・。極端だが、ここまで行かなければならない、というより、ここまで極端でなければならない。おかしなことに見えるかもしれないが、自然がまさに自然に行うような施しに近づく、同化するためには、ここまで徹底しないことには・・・。そうしないと、いつまでも恩を施せるようにはならない。しっかりと感謝する、それを示す、というのは確かに美しいかもしれない。それが当たり前の基準だろと思うかもしれない。しかし、施された側が丁寧に感謝を示し、施す側も、まあまあと言いながら、内心ではそれぐらいの感謝が示されるのがまあ普通だと考えていると、

「恩は、着せるものである」

という認識を強化してしまうことになる。恩を施したぞという気持ちを保たせてしまうのだから。

 着せるぐらいであれば、恩など施さない方がいい。一番良いのは、自分が恩を施していることなど知らずに何かを施せている状態(太陽などの自然と同じレベルにある)。次が、施したことをさっさと忘れている状態。最悪なのが、いつまでも施したことを憶えている状態だ。恩を施したことをいつまでも忘れないでいることによって、施した側にも施された側にも不満は溜まる。その上でまた着せるようなことをしていくと、不満はどんどんと大きくなって増えていく。着せることをやめない限りこういうものは次へ次へと受け継がれて膨れ上がっていくだけなので、それなら何の恩も施さないでいる方がよっぽどマシだということになる(不満が増えないのだから当然だ)。修行において、感謝を示したりまたそれを期待してはならないというのは、口酸っぱく言われていたことではないだろうか。

<197>

 誤解の満艦飾という言葉を見て、考えていた。これの解釈ではないのだが、さて、人はその人のやり方で誰かを全面的に掴むし、その掴み方に間違いというのはあり得ない、何故ならひとりひとりが世界(よく小宇宙などとも言われる)なのだから、ということを何度か書いてきた。つまり私が掴んでいる私というのは、私にしか通用しないものでもあるということだ(だから駄目とかいうことではない)。すると当たり前だが、他人が掴んでいる私というものには、他人の眼の数だけの面がある。それは私から見れば、

「誤解」

に映るかもしれない。しかしまた、私が全面的に掴んでいる私も、私の全容を把握している訳ではない。したらば何が誤解か。全てが誤解ではないし、すると全てが誤解とも言える(全部を掴むことはないという意味で)。それらを全部拒否しなければいいのである。もちろん、あなたはこうだからこうするという勝手な解釈に基づく物理的な攻撃、妨害には付き合えないし、また付き合う必要もないのだろうが、他人が私をどういう人間として把握するか、どうにもこういう奴に見えてしょうがないというものを、動かしたって仕方がないし、こちらからはどうやったって動かせないではないか(その人が動かそうと思わなければ)。そこで、

「悪いけど、私はあなた方が思っているようなそんな人間ではないんですよ」

と、私が把握している私以外のイメージを拒否して、狭いところだけで自己を構築しようとするのではなく、

「なるほど、こういうようにもそういうようにも、またああいうようにも・・・」

と、全部の人の把握を受容する(例えそれがネガティブなものであれポジティブなものであれ)、私の私に対する理解まで含めて全てのものを受け容れるその容器、穴としての大きな自己を据える。そういうものが何か、誤解の満艦飾という言葉から連想されるのであった。眼は、私は穴であると言うときの、穴という観念の象徴、あるいは物理的にもそのものである。

<196>

 今現在使ってもいないし、今後使う見込みのないものでも、そういった事情を承知して代わりに使っている人を見ると、なんとなく嫌で、また嫌とまではいかなくてもあまりいい気持ちがしなかったりする、その人が勝手にどこかに持っていったり奪ったりする訳でもなく、ここいらにあるのはあるのに、何か納得がいかない・・・。こういうことで意地になったりなられたりというのを経て、この問題は理屈ではない(事実使ってもいないし、今後もほぼ使う予定がないのだから)というのが大変なことだと思った。

 そして、今でもよく考えるのだが、これは食べられずに捨てられてしまう大量の食べ物の行方の問題と無関係ではないと思った。これは食べちゃ駄目ですよと言う、ではその食べ物はどうするんですかとなると、捨てると言う、捨てるならくれたっていいではないか(どちらにせよ処分だ)、と理屈ではなる。そして何も間違ってはいない。しかし間違っていないけれども、おそらく食べ物の所有者はいい顔をしない。この、いい顔をしないという事実がものすごく重たい(理屈が通っていればそれでOKという訳でもない)。何故、すんなりと渡せないのだろうか。渡せても、どこかに不満が残るのだろうか。これはもちろん余っている食べ物の問題には限られない。広く様々な物事に当てはまるだろう。おそらく、嫌なことだが、自分にとっても耳の痛いことだが、価値を見出していないところ(捨てる、使っていない)に価値を見出されることが不愉快なのではないか。もちろん、全てのことにおいてそうだという訳ではないだろう(例えば、私は、どうせ捨てるものを何で他の人がもらって食べてはいけないのかと思っている)。ただ、人それぞれ、価値を見出していないところに新たな価値を見出されるのが嫌な分野、領域、タイミングというのを持っていそうだ。それがぶつかると問題が起こる。それは理屈では超えられない。しかし、理屈が通っているものをどうするか。おそらく、そこをどう超えていくかなどという大袈裟なことは考えない方がいい。理屈では合っているけれども、どうも不愉快になってしまう場面からは離れる。距離を取ってぶつからないようにし、すっと通るようにするのが一番いいと思う。ただ、嫌な場面の当事者にならなければいけなくて、避けることの出来ない場合は・・・。多様性を承認するという話には美しさばかりがある訳ではない。そこには多くの我慢が伴う。

<195>

 一個の人間に対して、出来事が多すぎやしないか。こんな量をとてもひとりで経過してきたとは思えない。矛盾するようだが、自分より若い人に向かって、知識とか判断力ではないところで漠然と何か、

「分かっていない」

と感じるとすれば、それは、自分より若い人の世界が、より分かりやすい世界だという理由に拠るだろう。つまり、本当はもっともっと混沌としていくんだよ、という思いから来る、分かっていない。もっと分からなくなっていくということを、

「分かっていない」

ということなのだ。それだから、子どもの一言にハッとさせられ、何かに気づかされるというのもある意味では当然だ。勿論、知識量は劣るだろうが、要素、出来事が少なく、見通しは利きやすいのだから。