<207>「言葉はなに」

 当たり前かどうか分からないが、伝わってほしいと思うこと、その欲望と、実際に伝わってしまうことはまるで違うこと、別のことなのだという気がしている。

「ほら、お前の望んだ通りじゃねえか」

と言われても、何かが違う、しかも決定的に違ってしまっている。これは、わがままなのだろうか。

 何かがうっかり伝わってしまったことにハッとする。まさか伝わるとは思っていなかった・・・からばかりではなく、全く欲していたこととは違うことが起きているという感覚。Aであるということを伝えたいと思う→Aであるということが伝わる、ここにおいて、正確な理解に基づいてAであるということが伝わっていたとしても、扱っている対象であるAの捉え方において、その間に何らのズレがなかったとしても、その初めに内側で渦巻いた欲望と、外に伝わっていくということの間には大きな隔たりがある。内と外、動き方の問題ではなくだ。ひとりでに渦巻いて盛り上がっているものを求め、また、求められているのか。不愉快なものであれば欲さないとは限らない? 責任を放棄した訳ではないところで、こう言うかもしれない、突き動かされただけだと。

<206>「発話、発話」

 上から脅したり、下から脅したり、媚びたりそういうコミュニケーションの真ん中に置かれるのはうんざりなんだ。豹変じゃない。パワーバランスの調整を企図していることに変わりはない。そんなこと別にいいのじゃないか。パワーなんてことを特に考えなければいい。帰るよ。上から脅すとみっともない、下からはタチが悪い。あれこれのことを放棄して、沈黙、沈黙。何でコイツは黙っているんだろう? 黙らないとしたらどうすればいい?

「そんなことないですよ」

とでも言えばいいか? いけない、そんな形で勢いを増させるのは。

<205>「いろくろ」

 地黒、いろ、くろ。渡り、誰それ。肩慣らし、またらし、また減らし、みたらし。ふるふるふる夢の、地黒、いろ、くろ。高等な建築、何です? 嘘ごろ見頃その魂の、ふていふていと、ときおり見ては、それのまぐわひ、ひたらむき、抜き出し、ところでの香りの、地黒、いろ、くろ。ざら、ざら・・・ざらざらざら。

 よくここを通るんです。お近いの、そこを曲がれい。内の統計、相当父兄。経度の肩、楢柴の底、底なしぬば、ばさばさ。

<204>「いつから始まって、いつが終わりで」

 結果的に徒労であったということが明らかになり、疲れてしまうのは分かるが、しかし徒労であるということ(また徒労とかではないということ)を承知していると、疲れる前から疲れている。すると結局いつまでも走れるのだが、例えばそれは食っていることに気がつかないでいつまでもいつまでも食っていることと大差はないのだし、沢山食べてみたいからといって、沢山消費していることに気がつかないのはどうか。当人はたらふく食べた感じがほしいのではないか?どちらにせよ、沢山食べていることがひとつの条件なら、気がつかないでいればいいという気もする。それは時間的制限であったり、状況的制限であったりするのだろうが、全く制限がかからない状態を望むと同時に?

<203>「ひっこめて、うん、やっぱりひっこめて」

 例えば、金をかけずに揃えたいだけ本を揃えられたらいいな、と思う。しかし、その欲望を満たす可能性のあるような抽選が目の前に現れたとき、何故だか、

「参加しない方がいいな」

と思ってしまう(うっかり当たりでもしたら・・・)。別に、自分より困っている人が、などの変な意識が働く訳でもない。抽選というのは、現在の状況や調子といったものを完全にごちゃまぜにしてしまっているから良いのだし、そうすると、うっかり私が当たったとしても何もおかしいことはないのだと考えている。しかし、これは当たる訳がないと思いつつも、万一に引っかかったときのことを警戒して、引かない。これが、1000円とか5000円程度のカードであれば、せっせと応募する。特に何も考えない。それならばと、半ば冗談のような道楽で、本だけならば無限に買えてしまうようなカードを贈呈する(むろんあなたに受け取るつもりがあれば)と申し出た人がいる。すると私は何も考えずにしっかりとそれを頂くのだった。

<202>「圧倒されたままに動く手」

 受け容れる受け容れないに関係なく動けてしまう状態にいつもある、ということは、きっと悩みがあるというより、圧倒されて動けなくなってしまう瞬間があるだけだと考えた方がより妥当だという気がする。圧倒されている、あるいは圧倒されるだろうことが分かると動けなくなることもある。人間は身体構造だけではないのだけれども、受け容れているか否かにかかわりなく動けてしまうということを強く意識して、身体だけであるかのようなつもりになって動いてしまえばいいのだろう。実際動くのだから。

 また一方で、よく驚くようにしておく。というかいつ何時でも圧倒されていればいいとも言える。動きが多いのは良くない、今は動きたくないと思うならばだ。そこの出し入れ、圧倒される、それもいつもいつも圧倒されるから動けないのだが、圧倒されていても、圧倒されたまま平気で動ける、びっくりしていながら全く止まらない、それが自在ということのひとつの方法なのではないか。

<201>「関係のないところを切って捨てること」

 何かの条件を挙げる。それも、まだ自分がやっていないものを。そうして、一度でもやってしまった人達、それを経過してきた人達を、

「もう駄目だ」

と断罪する。ここには嫌な快楽が伴う。戻りようのない人達を、戻れないのなら駄目だよと言ってしまって、自分はその基準では全く駄目でないところにいる、ということには何か耐え難いずるさがある。

 自分の考えを持っていたり、これは良くないという基準を持っているのは別にいいだろう。しかし、それに当てはまらない人を、もう駄目だといって切り捨てていくことには、傲慢の一言では済まされないような醜さがある。