<279>「難儀する鉛筆」

 不合理な名前を、ひたすらに呼んで、ろくに交わしもしない会話を踊らせた。午後のけだるさ、よく見えるものは皆素早く動き、その色を証拠に捕まるのだ。担当でないという戸惑いを、表に出すか出さぬかの違いだけで、私もあなたと同じような余所者だ。恥を知るという難しい宿題に、難儀する鉛筆だけがその丈を減らす。一緒に見るのだ、始まらないはずの試合を、よく日に焼けたグラウンドを。ひとりで座っていることがどうにも一番自然に思われてならなかった。きっとこの角度をもう一度、夢で確かめるのだろう。よく冷えた夢を満たす一筋のコーラスが、オーライオーライという終了の掛け声を聴いている。

<278>「夢の中」

 今まで会ったこともない人、見たこともないものに出合っても、

「これは、以前どこかで見た光景をいろいろと組み合わせて出来たものだ」

とは思わないだろう。しかし、夢で同じような場面に出くわせば、

「ああ、これは私が以前見たもののあれこれを組み合わせて作られた結果としての新しいものなのだろう。よって、全く知らなかったものという訳ではないのだろう」

と思う。何故か。実際の景色は脳みその外に存在しており、夢の景色は脳みその中に存在しているからだろうか。

 脳みその中だけでは、新たなものに出合うことはないのだろうか。夢を見るたびに、ふとそんな疑問が頭をよぎる。既知のものの組み合わせでない場所を見ているような気がしてならなくなることがある。あんな人、あんな要素を持った人に会ったことがあるだろうか? 夢は蓄えられたものしか映さない、完全に中のものなのだろうか。外でもあり得たりはしないのだろうか・・・。

<277>「行動に出るということ」

 例えば、家族のある人と関係を持つことの何が悪いのかは分からないけれども、その行いによって、その家族全体を不幸にする、大方の人はそのことにひどくショックを受けるということを知っているから、わざわざあえてそういう行為には及ばないという人と、家族のある人と関係を持つなんて本当に悪いことだと考えているから、わざわざそういった行為には及ばない人がいたとして、行動が全てだという視点に立つと、二人は同じ動きを繰り広げているということになるのだろうか。

 こういうことを思うとき、行動が全てだという考えは非常に雑な、あるいは乱暴なものだという印象を抱いてしまう。あるいは仮に、行動が全てだという考えが乱暴でも何でもないと考えてみたとして、それでも内心は内心で、ひとつの動きなのではないかという疑問が頭をもたげてくる。結果的に取ったポジションが同じだったからといって(家族のある人とは関係を持たないなどなど)、同じ行動がそこで起きていたとは必ずしも言い切れないのではないか。何を考えているかというのは、行動の外に位置するのではなく、行動と一体なのではないか。身体の動かし方が同じだったからといって、見る人が必ずそこに同じ行動を見るとは限らない。そこに胡散臭い動きをみるかもしれないし、衒いのなさを見るかもしれない。見え方が様々であればそれはもう同じ行動とは言えないのではないか。

 行動と考え、これらを別々にするのには用心がいる。考えてばかりいないで行動しなさい、しかし考えも行動ではないか、両者はくっついているのではないか。じっと立ち止まって考えなさい、しかし、動き回ることは必ずしも考えることと矛盾しないのではないか。

<276>「何に見放された」

 見放されたと感じるとき、実は自分が見放しているだけだったりするし、不快な気持ちにさせられたと思うとき、大体自分も何か不愉快な行動を起こしていたりする。全部が全部そうだという訳ではないが、そういうことが圧倒的に多い。例えば、相手が不愉快な行動をこちらに向けてくるだけでは、不快さはそこまでひどいことにもならない。そこに自分の反撃が加わると、不愉快さは圧倒的に増える。

 こういうことは意外と一般的なのではないかという気がしているが、しかし何故、ストレートに、

「見放された」

と思っているのだろうか。

「見放してしまった」

と思わないのだろうか。そこには責任転嫁があるが、しかしぐいと無理して、責任を向こうに押しつけるところまで持っていったという感覚はないのだ。不思議なことに、自分が何かを見放したとき、それと同時に、

「見放された」

という思いが、瞬時に頭の中を通り過ぎているのだ。

 では確かに、誰かに何かに見放されていたのだろうか。すると私が、私を見放したということになるのだろうか(私が私に見放された?)。そこに、本当はそうしたくなかったのに何故かそうしてしまったという、行動と考えの矛盾とがあったからなのか。あるいはそういうことではなく、自分が相手を見放すということにそれほどの力がこもっておらず、実感がなかった為に、見放したとは思わないのだろうか。それとも確かに、自分は自分の為した行いによって、誰かに何かに見放されていたのだろうか。そんなことはあり得るのだろうか・・・。

<275>「なにかあるところへまた」

 思うに、関係があるという気分に入るのは、過剰に集中した結果として、ぼーっとするためなのだろう。その過剰な集中が解けて、ハッと我に返ると、まるで対象と自分とは関係がなかったような気持ちになる。ここで肝要なのは、ハッと我に返ったときの状態が正しい状態かどうかは分からないということだ。つまり、ボーっとしていて繋がりを感じているときの意識状態が、惑いであるかどうかも分からないということである。我に返る、過集中の状態に入る、というふたつの状況がただあるというだけだ。だから、本当に関係があるのかどうなのかというのは微妙な問題だとして、関係があると「思う」ことにはそれなりの自然さがあるのかもしれない・・・。

<274>「なにもないところへまた」

 関係がある、というのは随分と奇妙な問題だ。関係があるのか果たしてないのかという戸惑いが、人を微妙に寄せつけない。それは分かっている。しかし、自信を持ってあなたと関係があるともまた言えないのだ。ない訳ではないのだろうが・・・。

 関係があると認めるための条件を非常に厳しく設定しているだけなのではないか。そうとも言えないような気がするのだ。身近な人であろうが、画面の向こうのスポーツ選手のような遠さの人であろうが、そこでは同じことが起きている。つまり、密接に繋がっていることを疑っていもしない瞬間がぷつっと途切れ、無関心の空白へと放り出されたような呆然とした瞬間のひとときが訪れる。そこに条件の厳しさ緩さというようなものはない。私はそういった時間が別に嫌いではない。何にもないところへ還ってきた変な安心感とでも呼ぶべきものがある。

 錯覚だとか嘘だとか、そんなことは言わないにしても、ひととき関係があると思える、あるいは常に関係があると思えるためのきっかけ、条件とは何か、その動きをする理由は。一員だと信じるとか、関係があると信じるとか言う。しかし、関係があると思えるか否かはそれを信じるか否かにかかっている、と言われても、どうにも納得出来ない。関係があるという気分に疑いを差し挟まなかったのは、何かを信じていたからではないのではないだろうか。スポーツ中継観戦の様を思い出しておいてみて・・・。

<273>「太く根が張ったものへ」

 本当は分かっているのに分からない振りをしているのか、確かに違うと思っているから戦っているのか、分からなくなることがある。小さな頃、まだ批判能力もない頃に叩き込まれた価値観ほどそういうことになる。社会の一員としての地平に立てば、確かにそれは広く行われていて正しいということになるのかもしれないが、そこから離れて、さらの地平に立つと、どうも正しくもなんともないように思えてくる。しかしそこで、

「じゃあ、自分が感じたものに従っていればいいや」

と簡単に出来ないのは、植え込まれた価値観というものが自分の中でしっかりと根を張っていて手強いからだ。その存在を無視することは出来ない。ただ、しっかりと根を張っているからというだけのことで、その価値観を正しいものとしなければならない理由もない。

 思うに、批判とか懐疑とかいうものは、大事なものであれ、それ自体の力は弱いには弱いのだ。故に、継続的な姿勢として保っていなければならない、繰り返し続けていなければならない。そうしないと、植え込まれた価値観に圧倒されてしまうのだ。

 よく好きで読んでいる著者が、幼い頃に叩き込まれた価値観や信仰から離れられたにもかかわらず、それら価値観と最期まで戦っている姿を見て、

「そんなのもう気にしなければいいのに・・・。勿体ないなあ・・・。」

と思うことが何度かあったのだが、それは私の考えが浅いのだということが分かった。よく分かっていない頃に叩き込まれた価値観ほど、自分の中で強く、太くなってしまうものはなかなかないのだ。一方で、前述したように批判も懐疑も、一回々々の力自体は弱い。だから、思索の過程で、あるいは様々な経験を経たことで、それら価値観が違うと思った場合、その後それと戦っていくためには、一生まるまる分くらいの時間がかかるのが当然なのだ(一生では足りないのかもしれない)。