<329>「ひとつの出来ること」

 あくまで私に出来ることはひとつであり、それ以外にはない。選択肢を奪われた訳ではないし、増やすことを放棄した訳でもない。つまりひとつで全部である。不足はない。

 出来ることがいくつもあるように見える場合でも、それは表面的なことであり、根本的にひとつ以上のことはやっていない、またやる必要もない。どういうことか。ここには出来ないことはないという意味である。それは万能のスーパーマンであるという意味でなく、ここで、身体の枠内で、ひとつのこと(つまり全てのこと)を行う私の中では、何々が出来ないという話はないということである(その領域がない)。勿論、枠外で出来ないものにぶつかることはあるが、ここには出来ないというような領域はない。それは万能ということではなくて、ここにひとつ、出来ることがひとつあるだけだということなのだ。

<328>「帰路」

 わらわらと集まってはわらわらわらわら泣き叫ぶことを繰り返し、変更の危険がないように言い聞かせたいがなるほどそうとばかりも決まらず、権限のない領域で天才的な緩みを見せてくれる。出場と決まったからには出てみない訳にもいかまい。いつか必ず太ったまま電車に横揺られていくことを夢見つつ、うつらうつらうつろい、只事ではない雨の中を喧嘩腰に走り、警戒を解き、ほぐされつつ濡れていく角の、その店の規模の違和、また行けるそば。このようにして付された問題を、二度ならまだしも三度ばかしからかうもんだから、引きずられる道行き、並び合い、検討は立たず、そこの川・・・。

<327>「そんな大きなことは私には分かりません」

 途方もない大きさの出来事など、想像出来なくてもいいのだ。何か、想像出来ないこと、しようとしないことが悪いことのように言われることもあるが、そんなことはない。想像したところで、浮き上がってくるのは、想像を超えてしまっていてどうしようもないという事実だけなのだから。そんな大きなことは私には分かりません。分かったようなフリをすることも拒否します、と言っていればいいのだと思う。そんなことより、身の回りのこと、手の届く範囲のこと、そういった小さなことを丁寧に気にしていけばいい。

 想像を超えているのは知ってるよ、それに対しどうしようもないというのも知ってるよ。しかし、そんなこと分かんねえなんて言わないで、分かんなくても分かっているフリをしていろよ、想像出来るというポーズを取っていてくれよ(でないと、不安だろうが・・・)。気持ちは分からないでもないが、こんな不毛なふっかけもないものだ。

<326>「流れ、食べる」

 束の間、何も考えずに飛んでいるであろう者は、行く先を、方角をどのようにして決めるのだろうか。何となく流れで着いてしまう場所は、はて、私がここにいるはずがないという訳ではないけれども、どうしてここにいるのかしら? 約束事のように首を左右に捻り、次の目的を思い出すまではボーッとしている。そうしているうちに家に着く。家に着くというのはどうだろう? 悪くない。尤も、着かなかったとして他に行くあてはないのだが、行くあてがないということが一体何であろう。知ったことであるような顔をよく撫でて、ザラザラとしている。そこはかとない優しさで無計画の道を示す、よく褒めたげる。さて、何かを食べるのだったか、襲うのだったか・・・。

<325>「死んだように眠る」

 休憩が必要だ。なに、10分も20分もあれば足りるだろう。車両の風に煽られ、放心した呼吸どのの重さは、想像に余りあるが、何しろもうこれで、座って電車をやり過ごすのは三度目なのだから。懐かしい想いや景色が緩やかに右巻きに漂い、漏れ、辿り、前進する。

 眠りの掴まれ方が緊張感を高めてくれたのだが、お礼は誰に言わなければならないのかというと、それは私に訊かれても分からないのだ。尤も、ガタゴトとその一音ごとにイライラさせられることに変わりはなかったのだがそれも怒っている訳ではない、断じてない。そこの駅には休むところがない。いいだろう、立ったまま寝ている人たちの群れを鮮やかに、また面倒に描きつつ、改札を出るまでの一瞬をやけにフワフワとした気持ちでやり過ごすのだから。

<324>「倦怠の隙間」

 話合いは済んだ。尤も、話す前と後とで何の変化もなかったが、ともかくも済んだのだ。納得が行列を成していた。前と後ろに在る人が、私を挟んで何やら喋り出すのだが、ともかくも知っている情報しか交わされなかった。安心が行列を成している。不満そうに流れに逆行する人々の群れに引き止められ、二、三、言葉を交わしたが、ともかくもまあそれだけだ。そうしたからといって何か特別考えを変えるような事が起こる訳ではないのだ。ぞろぞろぞろと動き出す行列の中身にもう一度色と検討を混ぜてみたらどうなるであろう。好奇心が手元を滑らす。ジュワッと何かが溶け出すような音がした。音の方向へ歩くともなく歩いていると、突然、場違いな感覚に捕らえられ、意気消沈す。しつこいまでのチェック作業が続いている。カバンの中身をぶちまけてやれ、俺ならそうするね。しかしぶちまける面倒をどうにも考える。やだなあ、面倒のことをすぐ考えるようになった。そうして不格好にぶちまけられたから、誰かが笑ったり怒ったりしてやらねばならないところも、しそびれた。別にどうということもないという顔が、行列の顔が、洗面台へと真っすぐに続く。ジャブジャブというリズムが響き合い、まろび、初夏の照りを受けて生暖かく光っている。典型的な動作を脇に従えて、車道をゆく。運転者はお手上げの構えを見せる。はにかむようにして渡り、異存もなく、経費もないから、歩ける範囲でぐるぐると回った。うんと遠くまで行ってもいいのだが、戻る場合のことがある。そう、面倒のことをやはりまた考えるのだった。

<323>「側であることのいやさ」

 側(がわ)に立つのが嫌なのかもしれない。しかし、側しかないのではないだろうか。それで、こうでもないし、ああでもないのだという言い方を採用していると、はて、私は何なのだろうということに、あるいは、どこなのだろうということになる。私は、どこなのだろうか。どこでもないところは側ではないのだろうか。仮に側であるとして、それは何の側なのだ? 側でないところに立っていたとして、その下は地面か? 地面があるように見えているだけで、立っていると考えているのも幻想なのか。側でないものは浮いているのか、落ちているのか(落ち続けているのか)。

 どこかに、側であることを嫌だと思ったタイミングがある。そこからもう長い年月が経っていて、それでも何も変ったように思われないのだが、そのことは立っていることの証拠になるのだろうか・・・。