<353>「雪崩」

 これだけ魔性であるからといって、何か支障がありますか。一度きり駈けたらいいでしょう。よく燃えているものと聞きますが、私もそう思います。全身溶け出して、そこまで染み入ってしまったとして、何か批難されなければならない理由がありますか。永遠を丁寧に巡ったらいいのでしょう。ここからの景色は霧がかって見えますが、いつでもそうだと思います。

 払いのけるそばから、立ち昇る煙の中に身を置いて、行方をくらましたのだとしても私は何も言いません。風も何もない日に、痕跡の一切を留めないのはもっともらしいことです。微笑みは、季節を移しました。行くあてもないかと部屋の隅で、鈍い明りが溜め息を揺らします。

<352>「苦味がする日」

 ちぎれていくものを、ひとつひとつ掬う私は、苦みでなくて何なのでしょう。振り返ると、目の回ることばかりで、むろん振り返らせるものがあったのには違いないのです。記憶というものが頼りなく、また正確で、もう片方に立った人が誰か過去の人であるということは理解しました。それでも、理解しなかったのと同じような身振り、手振り、溜め息のつき方であったことを考えています。いえ、考えていましたが、それで何かが分かるという訳でもないのでした。

 窓の冷たさが、視力の代わりをするようで、私は大変この場所を好いと思いましたか、立ちあがる瞬間に、今まさに参加しているという感覚を胸に抱いて、今日までのちぎれの数々をもまた許容せざるを得ないのでした。いえ、喜んでいたのかもしれません。それで、あまり勢いが盛んなものを見るのが悲しくなるのです・・・。

<351>「死んで準備する」

 死んでいたと思いましたが、良かったですねえ。はい、生きていたと言いましょうか、生き返ったと言いましょうか、どうなんでしょうか。いやあ、大変嬉しいですよ、あなたはてっきり死んだとばかり思っていました。えっへへ、まあ・・・。しかし、死んだと見せかけていたと言っていいのか、いろいろなことを準備なさっていたのですねえ、作戦という部分もあったのですか? いやあ、何かを準備していたのは確かにせよ、それは準備の為の準備と言いますか、どこかに完成した状態を見ていたり、作戦だったりという感覚はないんですね。はあはあ、死んでいるような状態も・・・。意図して向かうという訳ではなく、仕方なく巻き込まれたと言いますか、そういう流れが出来ると、どうもそこからは逃れられないみたいでして、実際、ほくそ笑みながらその中で過ごしていたというよりは、死んだような状態の中にいてそのまま当たり前に死んでしまうこともあるのだなあという感覚を抱きながら存在していたような・・・。はあはあ、戻ってきてからの、あれら様々の結果は、死んだようなときにいろいろ準備されていたからだというのは・・・。まあ、結果論的と言いましょうか、いつ死ぬかということと何かを準備するというのは関係ないとすら思い始めていまして、それだから私がやっているのは準備の為の準備だと思っているのです。

<350>「家で見る」

 絵は家で見た方がいい。そんなに何枚も何枚も置いておく訳にはいかないだろうが、どうしても見ていたいものは、たとえ本物でなくてもコピーでも何でもいいから家に置いておいて、そこで見た方がいいと思う。

 そんなことを何故考えるのかといえば、美術館や、美術館ではないところでもいいがそういったところで鑑賞というものを終えた後、ものすごく疲れているのを感じるからなのだが、つまり家のような気ままに見たり見なかったりが出来ない美術館のような場所では、誰に強制された訳でもないのに、

「せっかくお金を払ってきたんだから」

と、展示してあるものの全てをいちいち凝視してしまっていたりする。もちろん近寄っていつまでも見ていたいときもあるし(それで全然疲れないこともある)、そうでないときもあるのだが、それは展示されているひとつひとつの絵によってもまた違うし、その日の体調にも左右されることである。ただ、

「美術館までせっかく来ている」

という意識は、そういった調子の数々を容易に脇へと追いやってしまうので、それで、全部に力を入れて見て回った結果が、どっと疲れることになっていたりするのだ。

 それに、今日一日だけ力を入れて見て、はいそれで終わり、というのはひとつの絵との付き合い方、出合い方としてもあまりよろしくないという気がしている。やはり、今日も見て、明日も見て、その間なんとなく見てみたりあるいは執拗に見てみたり、何かに気づいたり何にも気がつかない日があったりしながら徐々にその絵との関係性を築いていくのが一番いいと思っていて、その意味でも絵は家で見た方がいいと言えると思うのだ。もちろん、貴重な絵の数々をひとつの美術館などに集めた上で、一般に向けて公開してくれることに対する感謝の気持ちはあるし、そういった機会がなくなっていいなどとは全く思っていないのだが。

<349>「起きたな、散らばる」

 器を器として成り立たしめるものは、調子の良し悪しを確かめる素振りもなく、すっと侵入してきたかと思うと、たちまちにもうひとりを存在させてしまった。調子を無視するのは形なのか、内容なのか。ともかくも、雄弁な語りが腹部を渦巻き、挑発的に駆け巡る。いたって平静だと言い聞かせる動揺に気づき、そわそわそわそわ、よく食べられる状態を投げ、どんよりと曇った空気がやわらかく赤らんだのだと思うと、とても俯いて涙している場合ではないことのように考えられた。懸案不足か。懸案不足で夜に眠りが満ち、朝に起床が拡がり散らばってゆく。燃え広がるものは決して灰を落すことのないよう配慮する。なだらかな光景だ。

<348>「何追うでもなく」

 旦那は幻影を追っているのだと、あまりにも安易に言われた。言われすぎた。しかし悔しくて、むなしかった、悔しさを捨て切れずにいたのは確かにせよ、幻をいつまでもいつまでも狂ったように追っているのではなかったと私は思う。その道行き、届かないものを追うことで、足が前に前に進んでいたのではなく、ただ納得のいかなさ、割り切れなさだけがその足を前に運ばせた。失われたものの姿、その幻はもはや必要ではなかった。そんなものを追っても仕方がないことなど、誰にも増して旦那が一番よく承知していた。また、そうやって割り切るために、

「追ったってしょうがないよ・・・」

と自分に言い聞かせることすら必要なかった。ただ納得がいかないという、そのことがあれば充分だったのだから。

 幻影を追っているように考えた人は、旦那の見開いた目が果たしていずれをも向いていなかったことを掴み損ねたか、あるいはまさにその事実によってそういった判断を下すかしたのかもしれない。しかし追うべき対象、目指すべき目標などまるで必要としない視線、歩みであったことが私にはよく伝わってくる。私に伝わってきたっていいのだろう。

<347>「街灯のなかの陽」

 どこまでも沈んでいく声。頼りなさを駈けていく。鈍重な眺めよ、寂しい通りにひたひたと何もない。預かっておいた快哉は、使う場所を持たされたように笑って、なんとなくそこに立っている。眠られぬ気持ちをただひたすらに慰める。暴動の日常性、しびれさせられるものと私と、そのどちらとでも夢の行進は深くなる。潜っていく街、軽い身体、持て余す太陽、弾んで何を頼りにし・・・。厳しい視線が飛んだ。どこって街灯の中だった。