<384>「道にねばりつく」

 こうして、表情でいて、出会うとは思っていなかったのだから、もうひとつの目を、向けたのは他でもない、誰でもない。順調な、気分とあなた、睡眠と私。変化が困難を調整し、そんなことは驚きと、浮つきと、現実感のなさとに関係する。

 流れを探り出す。探り出したいと思うのだ。思うからには、厳しい視線と、余分な脂肪、地味な勇気が奔放でありさえすれば、こちらとしては問題がない、集中がない、気紛れもない、間に合わせの空間でない、乱暴な、解散の空気でもない、としたら・・・。

 どこかに飛び出すのだと聞いている。それは、音、音、音でない、そう、オンであれば、いい、なら、なお、細かさの集まりと細かさの意識とのズレから、一致、そうして流露を迎える。僕が従うよ? 誰の為でもない、その踊りの為に? だとしたら、唯ひとつの肉体でしかない。どこへ渡してもいい。そんな考えならば、どこに渡しても・・・。

 今日の口ぶり、慰め過ぎたら、また少し空になる。中身とは言えない、とは言え、皺の作られ方そのバランスに全てを託していて、それでいいとは言えない、とは言え、知れること、知られることはそこまでで、何かを判断してもいいが、そうしなければいけないと決めたのは、冷や汗でなくて何だと言うのだろう。

 消えては現れる、が、イメージしにくい? とんでもない! 笑顔だったはずだが頼りなく感じるのは何故か。確認したはずだが何も分からなかったのは何故か。きっとそれは私のものだったはずだが私のものという観念が上手く掴めなかったのは何故か。何故・・・何故だ? 道である、以上、ひとりの歩みのほかに選択はない。溜め息は、ほんの少しあってもいい。

<383>「ある日の波頭」

 あいにく、それは雨であり、適当に解かれるまま、背中を駈け、ひとりの暮らしを形作る。愛し、それは港を発する。暗い視線また視線、ピタ、ピタ、ピタ・・・。それは、非常な憎らしさ。何も言わずに絡まった。集めても、集めてもまだ足らない。誰か居たのかどうか、探りを入れる素振りまた素振り。簡単に拘束してみて、してみている。夢を工作に似せ、厳格なルールが好き。そこに雲を並べ、どうかすると、もう少し感情不足で、やや広い壁また壁、音という音が、そう。

<382>「スケッチ、僕、ペッティング」

 実際の私であって、終わらない、空間の虚しさでもある。ちょくちょく注いで、そうだ、もう少し輪郭をハッキリさせたいと思う、そう、思おう。これは、現実の問題ではない、なら、どうして・・・。がら、がら、がらがらがらがらがらがら。大体の距離を、知らせるのにどうしてもその虚がいる。どろっ、どろっ、どろどろどろどろ。

 スケッチ、僕、ペッティング、いろいろ、スケッチ、僕、快走電車、わらわら、わら。

 大胆な手口で、注がれてなお、ぐにゅぐにゅの私であれば、存在は成功だ。姿形を変えてみろ! 嫌悪と容器、増加と後悔、陳列と景色、天性と墓地、毎度通る音。その僅かな叫びを拾って、迷路の停車はまた・・・。

 ぼっ、ぼっ、ぼっ、ぼっ、あの、ぼっ、ぼっ、ぼっ、あの、ぼっ、何だ、何だ何だ、これだけ容れていればもういいだろう! 私は帰る、でも何処へ・・・。

<381>「さあ混ざる」

 秩序と無秩序を各々で慰めて、バラバラに慰めていって、後合流させる、そんなことを考えているやもしれないが、それはどうも人工的なことで(当たり前だが)、一度バラしたものの合流後、秩序も無秩序もそこに程よく混ざって存在し・・・というのは、元の自然な状態とは何かが違う、そんな気がするが、さて、何が違うのか。点滅(秩序が点いたり消えたり?)、あるいは明確な交代というものがない交代。水と、何か色のついた液体が混ざっているのとも違う・・・。

 秩序だけを取り出すとか、無秩序だけを取り出すとかして出てきたものは、通常頭の中に(身体の中に)あるとされているものとはもう別のものなのだと考えた方がいいのではないか。パーツとしてだけでは意味がなく、地図の中の一部として、全体の中で(物理的にではない)ある何かしらの場所を占めているものとして考えていかなければならないのかもしれなくて、ええ、何かの筋道が立ったり立たなくなったりという綺麗な分け方では、どうにも間に合わないことが多いという感じもするのだ。

<380>「記述と無」

 記述行為は無限の優越感を生んでいて、それを防げるか。どこが高等なんだ、人間が?と言うとき、人間の枠から自分だけ外しているのではないか(お前は・・・)。だんだんに無へと向かっていくもの、何かではなくなり、終わりには完全に無になってしまうのが記述の継続に定められた運命だと誰かが言って、そうか、何様だ、お前も人間であろうに、しかし、人間から外れたような物言いをしてそれで何の違和感も覚えなくなるのは、無になるから、無に近づいているからなのだ。無は何かを超えているのか。優越感の根拠は、何もないというところに見出されるのか。何もないということは即ち優っていることになるのであろうか。どうもそうではないような気がするが、さて・・・。

<379>「ねだけ」

 招き入れ続ける為、卑怯であり得るはずもなかったが、根本以外の回答をひたすらに捨てていった。何かが残ったろうか。妙に緊張していて、そこに不快感は伴っていない。錯覚だろうか。余りがないとなると、自身はいざ知らず、見ている方は間違いなく息の詰まる思いをしたろうという気がするが、考えすぎだろうか。同じところをいつまでもぐるぐると巡っているという例えが、ピンと来るようで来ないのだが、さて、どこを通っているだろう?

 中心に居たのだと感じたことがなければ、間違いなく流されていく側に回ったときにも、怒りの感情は芽生えないのだろうか。どうもそうではないようだ。何かが外れていくという実感は確かなものであるらしい。今現在通用しているものなどを頼りにしていないのなら、それらがそっくり新しいものに変わったときにも、全くダメージを受けないのであろうか。どうもそうではないようだ。

<378>「一点で動いていく」

 進めないということで苦しむことはなく、どうあっても進むということに苦しさはある。調子が悪くても大丈夫だし、状況が不利でも、派手に追い込まれていても大丈夫だ。逃げ場がないというのは結局、私がどこまで行っても私であるということで、何ら取り上げられているものがないということなのだ。ここにいなければいけないし、ここにいればどこまででも動いていく。何も止まらない。

 であるからこそ、障害は自分の手で設定される。他所の障害をわざわざ招び込む。周りから見るとそれがよく分かるから、そんな、自分で持ち込んだものなんか自分で追い出してしまえばいいじゃないか、と当然思うのだ。だが、進めないというところに苦しさはないのだ。苦しさであるかのように言ってみせることは出来るが。止めるものが何もないのだと気づいたなら、ただ外していればいいのだ。責任を負うというのはそういうことだ。何もかもが動いていく。