<410>「記述につきまとう正しさ」

 「自分が正しいと思っている人」

を、批判しようとするのは別にいいのだが、自分が正しいとは思っていないつもりの人が、どれだけその正しいという考えから離れているかというと、実はそんなに離れていないのではないかという気がしてくる。語るそばから、記述するそばから自身を疑ってかかるのは難しいし、語ること記述することそれ自体が、既に多分に正しいという観念を含んでいて、つまり語ること記述すること自体が、

「俺は正しいんだぞ!」

という表現になってしまっていて、それを避けようとするともはや語ること記述すること自体を否定するしかなくなるのではないか。語り記述する人間は、

「自分が正しいと思っている」

ところから、抜けられないのではないか。自分が正しいと思っている人を批難するときの、その批難者の「正しさ加減」は、どうなるのだろう。

 どうしてこんなにも、語ること記述することに、正しさというものは密接な関係を持っているのだろう。それは、存在するということの絶対感、確かさに由来するのではないか。当然のことだが、自分が存在していない状態(つまり死んだ状態)というのを、主観的には認識出来ないので、常に、存在しているという絶対感と共にあり続けることになる。その確かさが全ての基盤になっているので、自己否定の言辞も、反省の素振りも何もかも、正しさというものと親密になってしまうのではないか(俺は正しいよ、だって現にこうやって存在しているではないか、というように・・・)。そして前述したように、それを避ける方法というのはなくて、自分は、

「自分を正しいと思っている」

領域から、出ることがないのかもしれないと考えている。

<409>「きっかけ」

 声に出すかどうか、迷っているように見えた。まあ、この人なら始めてくれるという考えが、そんなに大きく揺らぐ訳ではなかったが、どうも、周囲が必要以上に息を詰めていることを気にしている様子だった。誰かが何か、例えばひとつ咳払いをするんでも、ちょっとそっぽを向いているのでも良かったのだが、案外、そういうものは大事なきっかけの役割を果たしていて、そういうものが何にもないとなると、すっと始めにくいものである。ただ、その人は心持ち微笑んでいるようであったから、私が楽しさから遠ざかることはなかったのだが、今この輪の中にいて、これだけふわふわとした物の考え方をしているのは私だけだと思えた。風が少し暖かい。

「どなたか、このハンカチを落しませんでしたか・・・」

きっかけは、このようにして掴んでみても良かった。尤も、それは傍目に中断としか映らなかったようだが。

 心地良く聞き続けられる状態を維持するのは並大抵ではない。上手くなければならないが、それを皆に悟られてはならない、ああ、上手いなあと思われてはならないのだ。誇示するなど論外。きっと、この繰り返しの中に住んでいて、日常性たる何かをどこかへ置いてきたのだろう。事の初めから流れはこの調子のまま、今の今まで変わったことがないのだという感じを抱いた。

<408>「当たる角度だけで」

 他人は、どこまでも自分を含んだものとして在るとはどういうことだろうか。自分で見ているというのはそういうことだが、おそらく、自分を含まないその他人というものを見てみたいと思えば、何もかもを完全に見失うことになるだろう。目を瞑ってみたところで、そんなものは何の解決にもならない。

 もっとも遠いはずの人が、自分の範囲からは出ない。どういうことだろうか。自分が見ているというのはそういうことだが、限界は、あちらにあるのではない、こちらにあるのだ。そこまでしか見えていないということを確認すると、その途方もなさに、どうしたらいいのかが分からなくなってくる。

 この人は、自分の一部ではない、そうではあり得ないのだが、自分でしかないものが外部に、具体物として現れた、と感じてしまっている。見ているというのはそういうことだが、どうもおかしなことだ。ひとりの人間について、バラバラになる意見を無理にひとところに集めようとする努力は、滑稽で苦しい。あなたが映っているものとしての私が、そこにあるだけなのだから。

<407>「切、変、」

 10歳の頃の内部を、技術を、上手く思い出せない。おそらく同様に、10歳頃の自分が、自分というものを延長した先に、今現在頃の自分というものを正確に思い描こうとしたとしても、それは上手く行かずに失敗に終わったことだろう。同じ人物の時間的な隔たりの間には、予想もつかない断絶、飛躍、崩壊がある。

 さて、そのことを忘れて今の自分が、自身の未来というものを想像するとき、自分を延長していった先に何かを見て、喜んだり落胆していたりするのはおかしなことだ。またいくらかの年を経れば、また新たな断絶、飛躍、崩壊を様々に抱え込んでいることは確かだからだ。一体全体これは誰なのだと、過去に向かっても未来に向かっても思い続けていくに違いない。それぐらいに人ひとりの変化というのは激しいものだ。物理的な距離を、実際にどれだけ動いて回ったかということとはまるで関係がない。

<406>「弁明と弁明」

 もし悪人が、己の悪さ加減について弁明する機会を永遠に奪われるようなことになったとして、それは良心に責め苛まれている状態なんかよりも遥かにきつい状態に陥ったことを意味するだろう。自分が悪いという事実を、自慢風にであれ反省風にであれ、まるで語れないとなると、これは相当なしんどさになる。

 それは、悪というものをひとり内に抱えることの難しさから来るのだと思っていたが、まあそれは確かにそうだとして、しかしただ、そのしんどさは悪に特有のものという訳でもなく、立場という立場全部に言えることなのだという気がしてきた。望んでいない立場に甘んじている場合はもちろんのこと、望んでいる立場に立てているときや、別段可もなく不可もなくの立場に立っているときでも、そこでは一切の弁明が禁止されているとなると、きっとその場に立って耐えてはいられないだろうと思う。

 傍らに、常にと言ってもいいほど、あらゆることについて弁明を繰り返し続けている人がいたとする、すると、そのときこちらが感じる苦しさというのは、その言い訳を延々と聞かせられ続ける苦しさというよりは、その人が常に弁明をしていなければならないほど苦しい状態に追い込まれているというのがダイレクトに伝わってくる苦しさだと言える。

<405>「歩き方の達人」

 遠路はるばるやって来て、寸前だというのにもかかわらず、あら違うと思ってぷいっと帰っちゃう(どこで見た話だったか、未だに見つけ出せていないが)、これは、フットワークの軽さ、動きの自在さというだけではないかもしれない。では、この境地には一体何があるのか。それは、私がそこまでのところに到達出来ていないのだから、分かってくるべくもないとは思うのだが、その状態でも何かを探すことだけはしてみなければならない。いや、そうやってスタートを力込めてぐいと設定してしまわないで、それこそぷいっと始めて、そのまま続けていければいいのだが、さて何を手掛かりにしたら良いのだか、権利と義務などというカタい方面から入っていくのか。どこかに動くということが、この達人においては義務になることがないから、方向転換にも、後悔や未練はなく、もうここまで来たんだぜという気持ちが、意識に上ったかどうかさえも怪しい。大事なのは、自宅から遥か遠くの友人宅目前という状況で、引き返すという事実の方ではないのだと思う。それこそその引き返しに、無理が伴ってしまう場合も、人によっては大いにあり得る、というかほぼ全員がそうなるだろう。片や達人は、たといそこで引き返さず、そのまま友人宅へと辿り着いたにせよ(それだと特筆すべきエピソードこそ出来上がらないが)、その動きの軽さは、義務でなさは、風のような流れであったということだけは言えるはずだ。究極を言うと、それは歩き方の鍛練の果てとも言えるかもしれないのであったが、何かを詰めていくという気持ちを無化するためには、一度その詰めていくという事実に真正面からぶつかっていかざるを得ないのだ。

<404>「俺が一番上手い、という据え方」

 「俺が一番上手い」

と言った。それは、美学であるというよりほかなくて、というのも、それはどこまでも無用な追いこまれであるからだ。そんなことを言わずに謙虚に、また、謙虚とまではいかなくともただ普通にしていれば、余計なプレッシャーを、批難を、嘲笑を浴びなくて済む。それに、無用な追いこまれであるという言葉の意味には、それをしない他の人たちが決して楽をしている訳ではないということも含まれている。俺が一番なんだと言って徒に追いこまれなきゃいけない理由もないし、それをしないからといって、その人がズルをしていることにはならない。

 俺が一番上手いと言う。無用な追いこまれだ(無用であるから美学だ)。何故なら、

「俺が一番上手くはあり得ない」

からだ。客観的に見て、他の人より劣るからということではなく、単純に技術が足りないからということでもなく、確かに上手いけれど、一番は他にいるからということでもない。一番というものを数値などで客観的に決められない世界において、観賞者は、皆めいめいに自分の心の中だけの一番を持つようになる。つまり、どんなにか素晴らしいと認められている人、そんなの決められないけど、決めるとしたらあなたが一番じゃないか、と言われている人でも、ひとたび、

「俺が一番上手い」

と発言すれば、相当数の反感を集めることになる。ということは、無用に追い込まれること必至な言葉即ち俺が一番上手いなのである。

 それでも、言う。それは無用かもしれないが、いや、無用だからこそ、生きるひとつの態度になる。そんなことで無駄に追いこまれる必要はないのに何故、と問うてみたところで仕方がない。必要などというところで動いていないからだ。そして、どうしようもなく、私もそうでありたいと思っている。