<541>「部屋、回転、仏頂面」

 その部屋、突然現れた。まだまだ、気を良くしている間だけだが、なかなか静かな運動が気配や気配一緒になって乗っているのかどうか。夢であるためにどうもこのままでは不思議なことで終わってしまいそうなように感じている。そのことどもには同意せなんだ。それから、仏頂面の壁、いや、お面? それは左側を占め、いや、右側を占め、締め出された空気それから的がないこの日。一度たりとも背けたことがないが、さてどこを見たらいいか分からない。この度は視線か、いや感情であるものがぐにゅぐにゅと。挨拶を忘れた訳ではないが素地、材料もまたどこから持ってきたのだろうかこれは想像がつかない。何で作られているのか頭が部分々々でぐるぐるぐるぐると巻き始めてこれ以上怖ろしいものはないだろうが否応なしにこれで、一粒ずつ落ちていくこれが部屋だろうかどこだろうかあらあららまたの名を、部屋。

<540>「自と想像」

 ふたりが少し遠くで話をしている、としたら・・・。そこで何が交わされていると想像するだろう? それが、何の想像もないのである。視線がこちらでさえなければ、何てことはないただ視線は、ひとつの不安だ。不安をよく見て話しましょう。よく見ることで、それはただの暗い穴であることが分かるのだから。アクションがどこかで持ち上がってそのまま止まっているのか、持ち上がる前の状態なのかそれとももともとここでは何も起こらないのか。

 どうしたよ、数多の音がいっしょくたになって耳を圧するようではないかそれに、私ばかりがそれを聴いているようではないか。騒音で埋めてしまえ。思っているのかしら、いや違うのかしら、そんなことは分からんが、見つめる目の数だけのうるささがあると考えていい。もう少し、ボーっとさせろ、いやもっと、全体的に強く、ボーっとさせろ。

 何だ? まだまだ足らないと考えている人に、足らないものは何か? 検討か? 経験か? 一日の中に、こんなに瞬間があるのじゃないか! もう少し易しく回転するものと思っていたが、どうやらそれは嘘みたいだ。いや、嘘みたいだから嘘ではないのだが、ひどく全体に、つまり私にも、視線にも関係があることらしい。

<539>「中間地」

 よく嘆きたがるものはおそらく、どこかの景色になっている。そこから時間の経過と言えども知らず、流れ流れた先の場所であるのかも知らず、細かい確認に分かれているところこそ、現在なのである。一切の物思い、気分に別れを告げ(あるいは告げられ)、しかしそれにより、やたらとゆっくりした驚き、惑いというものが密接になって立っている。

「お前は、いつまで疑問であるつもりなのだろうか?」

「とっくに判断したものたちに比べ、まるでお話にならないな」

そうなのだ、お話にならなくするためでもあるのだこれはおそらく。もちろん、単純に、疑問であるところからポコッと外れることが出来ないというところもあるのだろうただ、

「こんなもんお話にならなくしてやろう」

という意地悪な気持ちもある。それは裏側をしっかりと支えているはずだ。

 そんなものに支えられて立っているだろうものが、もう少し明るくしてくれだとか暗くしてくれだとかの注文をつけるはずはないし、頭にあるのは何かを超えてしまうということ、それも、物や人の上に立つのではなく、運動として、不可解に不可解を重ねてひとつの抗い難い景色になるようなこと。深まり過ぎた不安が逆に一切の表情でなくなってしまっているようなことを。

「不遜な望みを」

しかしそうだ、見ることで糸は揺れている。それが疑いの、惑いの表現方法だと言わんばかりに・・・。

<538>「次の足」

 この足を直接に使うのでなければ、どこまでも遠くへ行けるのかもしれない。そういった願いは、この場合以外であれば有効で、現に大体のものがそのように動いているのだから、ただそこに腰かけているだけでもいいのかもしれない。

 ただこの場合は、この場合だけは、この足で、ひとつずつのものをミシミシと踏んでいくよりほかに仕方がないのだ。いきなり遠くに現れるという妄想から下り、心地良い夢の映像に打たれて棒になった足に活を入れ、また左右に僅かずつ揺れるだけの営みに還ってゆく。しかしこのことは、物事を随分遠くまで運ぶ役割を担うらしい。しかしこの揺れと、移動の蓄積などは、まるで関係がないように見える。別に、関係がなくてもいいのだろう。左右に揺れること自身にとって、そこからの結果は何であってもよいのだ。また、左右に揺れることなど本当に何でもない、はい右足どうぞ。

<537>「虚ろな人の数え」

 誰も、冷静さが武器とは言わなかった。それはそうだろうやがて、眺められることなどが諸共放り出され、無感情に何かを数えてみるのだが、いちからいちへ、この渡し合いに何の繋がりもなくて驚いているのだろう? そのうち、この疑問は穏やかな昼間のなかで拡がって、ある一定の着地場所を得る。ただ、それは願いの強さに因るのであって、決して何かを確立したためではない訳だから、また空中に放り出され、疑問らしい音を鳴らして過ぎていく。やあやあ、困りましたな。これでは、全て計算で済むようではありませんか。君のその警戒する動きがいちとにであったり、そんなことの積み重ねであったりするという話を素直に受け容れるのですか? 受け容れていないことは別段凄いことにもならないでしょう。なおさら、そこで構成されているのはリズムだと言いたくなる訳です。

<536>「ろんど、ろんど、渦の」

 彼方から叶えられなかったものが集って非常な語らい、もう相当に嘘と大騒動、巻き込まれて今日行動するだろうから、まだ看板だがそばまで来てただ眺めていたりいなかったりするのだからほら、優しいな、眠るのにな。上を見たらいない下を見たら、後はこの登場だけ残されていると言ってやったり見てやったり、ああ呼吸。そこから出ると空気を読んで、バラバラと思う存分拡がっていってそれはいつから息であったことを忘れるのか、忘れなさいあなたが漂い漂い叶えたりもらったり笑ったりしているのはどうして? それこそよくよく走ってみなければ分からないものとなっている。

<535>「一量の電車の怪、体力」

 お前が、また、そんなことを訊ねるもんだから、到底そんな言葉からは想像もつかない曖昧な景色、ドギツイこと、一両の電車を見る。何故、体力が、減っていけばいくほど嬉しいのだろう。肩を上下させ、この瞬間はただ、望まれたままのものだと知る。しかし、億劫なのはただ、動き始めることだけなのだ。内容には何も関係がない。動き始めるということの怪。私はそうだ、どこかで止まっているらしい。もっとも、止まっているとは露ほども思わなかったのだが。駅は大体ここいら辺に据えつけてある。何両かに増えていますよ、と言ったところで、ひとつひとつの個人ではないのだろうか。要するに、一両の動きということだけに注目する。そこ以外には視線を持っていかない。もっとも、持っていく必要がないのかもしれなかったが。あれま、億劫そうにゴト、ゴトと揺らしながら進んでいったが、積み込んであればあるだけの億劫さ、軽ければ軽いだけの進みよさ、仰ぎ、うつむき、なんの結果としての上気だろう? 機会があれば、私にはまたものを捨て去るだけの動きがある。あれま、回転と、溶け出しと、親しさがこの場に現れて、頭などから順々に見る。