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やらなければならないことなどない~不自由さを使命に変換して

 「あ~今月も仕事が忙しくて大変だわ~。休みなんかほとんどないもの。」

と、口癖のように言う親が・・・いたとします(フィクションかノンフィクションかはご想像にお任せします 笑)。 月にほとんど休みがないくらいに働いていて本当に頭が下がります。もう少し休ませてくれたらいいのにねえ~とついつい声をかけたくなってしまいます。

 しかしここで私はひとつ、大きな違和感を持って前述の親の言葉を聞いています。何故か。

 

 親の声色にはひとつの悲哀も感じられないからです(会話が苦手なのに、こういう所は敏感に気づくんですねえ 笑 我ながら嫌なヤツです 笑)。 むしろ発せられる言葉の字面とは裏腹に、その声からは充実した喜びを感じられる。

 思うに、親は「何かやることがある」ことに非常に喜びを感じているのではないか。そして、「やるべきことなどない」という事実を見ることを非常に恐ろしく思っている。 勿論、仕事内容それ自体に意義を感じている節もあるでしょう。ただ、頼まれた事は断らずにスケジュールを埋めていき、それでいて口から出る言葉は愚痴が多いが、それに反して声のトーンは明るいという状態を見ると、やはり「何かやることがある」ことに非常に安心を覚えているように見受けられます。

 

 しかし、まあ親に直接告げるかどうかは悩むところですが(わざわざ言わなくても良いような気もしますし、しかしそれは誠実ではない気もしますし・・・)、

 「やらなければならないこと」なんてありませんよということは、自分がおかしくならないためにも、ここで言わせていただきます。

 いやいや、「やらなければならないこと」なんていっぱいあるじゃないか、と思うかもしれませんが、それは元々そんなものなかったのを無理やり人間が作っただけです。無ければ無いで別に困らない。 正確に言えば「困らなかった」んです。

 

 とんでもなく偉大に見える、世界を一変させたものですら、決して「やらなければならなかった」ことではありません。 例えば「電気」や「鉄道」を見てみましょう。 今の時代に急に無くなったら、これはものすごく困るでしょうね。いっぺんにいろんな人が職を失うかもしれません。ですから、今「電気」や「鉄道」が要らないものだとは思いません。 

 ただ、だからと言って、人類の歴史上絶対に「電気」や「鉄道」が必要だったかと言えば、そんなことはありません。 それが証拠に、これらのものが無い時代の人達も、ごく普通に人間生活を営んでいました。 もし仮に「電気」や「鉄道」が永遠に発明されない世界があったとしても、人類は適当に繁栄して、適当に衰退して、適当に滅んだことでしょう。 それは今の「電気」や「鉄道」がある世界でもおんなじことです。 繁栄した長さにわずかの誤差があるだけでしょう。

 無ければ無いで別に困らなかったんです。 偉大だ偉大だと言うけれど、何のことはない人間の「暇つぶし」です。

 

 「暇つぶし」が悪いんだということではありません。 私も「暇つぶし」の材料を探すことは好きですから 笑  問題なのは、ここでまた親に話題は戻ってきますが、親が「やるべきことなどない」という事実を全く無視して考えないようにしていることです。 無視しているから、「何かやることがある」という不自由を、「暇つぶし」のために進んで享受しているという事実を、自分の中で勝手に「使命」にすり替えてしまっている。

 つまり、親にとって私は、何がしかの「使命」を果たしていないように見えてくる。自分が「暇つぶし」のために不自由を享受しているという事実を忘れて。

 そこに私に対する「嫌悪感」が生まれてしまうのだと思います。

 

 さらに、先ほど述べたように「やるべきことなどない」んだよという事実を直接伝えることは、いまだためらっていますが、たとい声に出さなくとも、私の身の振り方で「やるべきことなどない」というメッセージが間接的に、びしびしと親に伝わってしまっていて、親は親の方で、それについては見ないように考えないように努めてきたからこそ、非常にショックを受けるし、焦るのだと思います。

 

 うーん、この親との問題をどう処理するかは難しいところですが、ゆくゆくは親と

「人生における上手な暇のつぶし方」や「人生とは暇つぶし」であるということを語らいあえるような関係になりたいなあと思っている今日この頃なのであります。