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過程の充実だけでもだいぶ濃い~結果はオマケ~

 松本清張さんの作品に『或る「小倉日記」伝』というものがあります。「小倉日記」とは、森鷗外が明治32年6月から明治35年3月まで九州小倉に赴任していた時に、つけていたとされる日記のことですが、実はこの日記、誰かが持ち出したまま行方不明になってしまっていたんですね。

 その後、岩波書店が昭和13年に「鷗外全集」を出すのですが、案の定「小倉日記」の部分だけすっぽり空いてしまっていた訳です。

 

 そこで、『或る「小倉日記」伝』の主人公、田上耕作は、森鷗外好きで、なおかつ偶然にも小倉に住んでいるという縁から、この「すっぽり空いた」部分を埋め合わせるために、生前、小倉で鷗外と関係を持っていた人たちの所を片っ端から訪れて、鷗外がどんなことをして、何を語ったかを片っ端から集め、「小倉日記」を代わりに作り上げることに一生をかけて取り組もうとしたのです。

 

 「小倉日記」の材料になる断片を方々から集めてくるという仕事は、これはもう並大抵のものではなく、時には、

「そんなことして何になるんです?」

と冷たくあしらわれ、俺のやっていることに意味はないかもしれないと、何度も何度も耕作は気持ちが折れてしまいそうになります。

 おまけに、耕作は神経系の障害を患っていて、口は上手く回らないし、左足は麻痺していて上手く歩けないという二重苦を抱えていました。

 

 しかし、母親や理解のある友人、耕作の才能を認めていた医者の助けによって、耕作は何とか仕事を進めていきます。 そうやって仕事を続けていると、生前の小倉での鷗外について貴重な話を語ってくれる人たちにもいくらか出会えました。

 

 ただ、時代は戦争に向かっていき、戦争が終わると、満足な食事も取れなくなるので、耕作の持病である神経系の病状は一気に進んでいきます。

 ついには寝たきりになり、ある晩、幼い頃に慣れ親しんだ「鈴の音」の幻聴を聞きながら、耕作は、仕事の完成をむかえられないまま静かに息を引き取りました。

 

 

 耕作亡きあと、実は、行方不明になっていた鷗外の「小倉日記」はなんと発見されます。 つまり、耕作の仕事は「徒労」に終わった訳です。

 ここで清張さんは

「田上耕作が、この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福かわからない。」

と結んで、この話は終わります。

 

 もし、「結果」だけに着目すれば、

「あんなに一生懸命頑張って、代わりに空白を埋めようとしたのに、耕作は可哀そうだ。」

と、なるかもしれません。

 でも、私は全くそうは思わなかった。 むしろ耕作を

     「羨ましい」

と思ったんです。

 

 何故なら、愛する対象に、死ぬまで一生付き合い続けることに情熱を燃やす人生のなんと豊かで、奥深くて、充実していることかと思ったからです。

 どうしても「結果」ばかりに目が行きがちだけれども、「過程」だけでもこんなに太くて濃いんだと考えさせられたのです。

 

「あー、結果ってオマケなんだ。」

と、気づきました。

 「オマケ」というのがまた上手い例えで(自分で言うかね 笑)、あるならあった方が良いんです。無いよりは遥かに良い。

 ただ、あくまでもオマケはオマケです。あったりなかったりして当然な訳です。

 むしろ、人生の拡がり、中身の充実は「過程」にこそかかってくる(何の取り組みもしないで、大金だけ懐に入り込んだむなしさを想像してみてください)。

 

 だから私は、

  「何の結果も得られず、形にもならなかったらどうしよう。」

という、言いようのない不安に襲われたとき、『或る「小倉日記」伝』に戻ってくるようにしています。 いやいや、「過程」こそ本質だよというのを確認するために。

 もし「結果」にばかりとらわれて、気が滅入っている人がいたら、是非『或る「小倉日記」伝』を読んでみてください。

 

 

 最後にもう一つ、これを書くに当たって参考にした、為になった話を最後に引用して終わります(オマケってのはこっから着想を得たのか? 笑 編み出したみたいなこと言ってすいません 笑)。

『「結果がすべてだ」という考え方が世の中には蔓延している。 プロなら過程は問題ではない。「結果を出せ」という考え方だ。しかし、ぼくの胸には「結果」自体は強くは残らなかった。それは実感だった。自分の胸を探ると、摑めるのはいつも過程だった。あれをあれだけやって、めんどくさかったし、大変だったけど、楽しかったな。完璧にはできなかったけど、自分なりにやったな。そんな単純な想いだけはいつも値が下がることなく胸に残っているのだ。「結果」はいつもそういうものの後にあとだしのじゃんけんのようにやってきた。』(社会人大学人見知り学部卒業見込 著・若林正恭