不要論をつめていく怖さ

 不要論というのは様々な所で見られますね。例えば、サッカーや野球のようなスポーツでは「○○不要論」(「○○必要論」というのもありますね)という話題で盛り上がっている場面を見受けられます。

 まあ、スポーツの中での必要/不要であれば許容範囲内だと思いますし、実力の世界ですから、そういったことで盛り上がるのも良いかもしれません。

 

 ただ、これが例えばこういうように

「お前なんかいなくても良い」

「世の中にはあんな奴ら必要ない」

「要らない奴らは排除しろ」

不要論が「人間存在」の話にまで降りてくることには非常に恐怖を感じています。

 また、恐怖を感じるのと同時に、「人間存在」の不要論を、あたかも自分が正義であるかのように振りかざす人は、自分自身が「世の中に絶対必要な存在」であるかどうかということに少しの疑問も抱かないのかと不思議に思うのです。というのも、

 

       「絶対必要な存在」

というのは、あっという間に揺らぐからなんです。

 以前に書いたものの中でも言いましたが、

 

やらなければならないことなどない~不自由さを使命に変換して - そうだろうね、いやどうでしょう

 どんなに偉大な事を成し遂げた人物でも、もしその人がいなければいないで、人類はそれなりに活動を続けていったはずです。 百歩譲って「絶対に成し遂げなければならない事柄を成し遂げた偉大な人物」が存在したとしても、仮に偉大な人物が何かの偶然で世の中に現れなかった場合は、他の人が遅かれ早かれ「絶対に成し遂げなければならない事柄」を偉大な人物に代わって行っていたことでしょう。

 

 こうしてみると、あっという間に「絶対必要な存在」というのは見出せなくなる。

 不要論をつめていくことの何がこわいかというと、つまり

「あんな偉大な人物も絶対必要だったという訳ではないんだから、みんな必要ないとも言える。」

というところにまで容易に辿り着いてしまう可能性があるところです。

不要論」は言うなれば、力技で、無理やりいろいろな理屈をつけて、誰にでも当てはめることができてしまう。 これは恐ろしいです。

 

 私は、「人間はすべからく排除されるべきだ」とは絶対に考えません。

だから、「人間存在」を「不要論」でつめていくのは、恐怖だし、ナンセンスだとも思います。