障害と健常の境

 先日、NHKの教育番組「Eテレ」で、障害者の人達によるお笑いの大会があった。ネタが面白くて、楽しんで見ていたのだが、やはり「障害とは何か」ということが頭をかすめる。興味深かったのは、一口に「障害」といっても、多種多様の「障害」を持った人たちが出ていたということで、演者さんからゲストまで含めて、「寝たきり」、「高次脳機能障害」、「統合失調症」、「発達障害」、「対人恐怖症」などなど様々な症状を持っている人達が一同に会しているのであった。

 

 これだけ「障害」の種類が多様であるということを現に目撃すると、はて「健常」とは何かということを思わざるを得ない。

 身体的側面というある程度分かりやすい「障害」から、精神的側面という比較的分かりにくい「障害」まで、こと細かに点検し得たとき、はたして「健常」の評価が下される人物がどれだけいるのか。

 また、「健常」の基準とは何か。あるとするならば誰がどのように定めるのか。歩行一つとってみても、完全に歩けない人は「障害」があるとして、では歩行困難の程度がどのくらい重ければ「障害」で、どのくらい軽ければ「健常」なのか。境目はあるのか。

 

 こういうように見てくると、厳密には「障害と健常の境」などないように思えてくる。勿論それは、「障害」を持っている人たちに援助をしなくても良いといった趣旨ではなく、「障害」というのは、全ての人が既に自分自身に抱えている問題なのではないだろうか、ということなのである。

 ふと、あるときに事故や病気によって関わりを持つようになるのが「障害」なのではなくて、既に一人一人が対面しているものなのではないか。

 各々、症状名になって上がってくる、上がってこないに関わらず、何らかの「障害」を全ての人が抱えているとするならば、「障害」というのはごく身近な問題である。

 

 また、それならば何故、残酷なことに「歩行困難」を抱えている人に対して、何の考えもなしに「歩き方がおかしい」という感想を私は持ってしまうのだろう。

 それは、人間には何か「正しい」歩き方、「人間ならこう歩くだろう」という錯覚が私の中にあるからだ。

「あの人は普通の人の歩き方とは違うからおかしい」

と。

 しかし、「普通の人の歩き方」というのは幻想で、実際にそんなものはない。めいめいがそれぞれ異なった歩き方をしているのである。それを、「歩き方っていうのは大体こういうものだ」と言って無理やり同一化しているのである。これは人間の行う同一化の「短所」だ(長所は言語、発話などにおいて顕著である)。

 歩行困難の人が「違う」歩き方をしていることにおかしさを覚えるのは、よく考えれば変である。

 「障害」を持っているがゆえに「違う」のではなく、元から全員「違う」歩き方なのだ。