人間性を失わないために

 人間の感情というものを表すときに、「喜怒哀楽」なんて言葉が使われますね。本当は、人間の感情というものは上記四種類では表しきれないほど多様ですが、一応「喜怒哀楽」という四つが、いわゆる感情の選抜のようなものと言えるでしょう。

 「喜」と「楽」というのは非常に明るい感情ですね。こういった表現は嫌いですが、一応「正の感情」とも言えます。

 反対に、「怒」や「哀」は対比として、「負の感情」とでも言えるでしょう。「負の感情」を覚えることはあまり気持ちの良いものではありません。「怒」に関して言えば、これを向けられた相手側も、同様にあまり良い気持ちがしないと思います。

 あまり良い心持ちがしないせいでしょうか。

「怒ると身体に悪い」

であるとか、

「怒りを露わにするのはみっともない」

といったようなことが言われます。

 しかし、私はこれらの言は間違っていると思っています。「怒り」などの「負の感情」も、「正の感情」と同様に、立派な感情ですから、しっかり尊重してあげないと、排出されなかった「負の感情」は身体の中で行き場を失い、不発弾のように沈殿し続け、その繰り返しであまりにも「負の感情」が蓄積されると、あるとき爆発してしまうのです。つまり、キレたり、自分がおかしくなったりしてしまうということです。

 ですから、怒りたいときには感情に正直に怒る方が、むしろ身体に良いと思っています。

 また、「負の感情」だから、あまり良い気持ちがしないからといって、「怒り」を押し殺してしまうと、次第に感受性が麻痺していき、「負の感情」だけでなく、「正の感情」も鈍っていきます。つまり、怒りもしなければ喜びもしなくなってくるということです。

 これはいけない、危ないと思った私は、感情に正直に、主に文章にすることによって、「怒り」を表出することにしています。感情の豊かさを取り戻す訓練みたいなものです。

 そして、私の「怒り」は例えば、

少子化改善なんか訴えたってしょうがない、多くの人がもう死にたいと思っている社会で、種の保存もクソもない。」

であるとか、

「親が偉いなんてとんでもない幻想だ、馬鹿げている」

というような、非社会的であって、共同体にとってはよろしくない形をとることもしばしばあります。世の中的には、これらの私の怒りは間違っているとも思います(もっとも、それはあくまで「世の中的に」という前置き付きであって、本質にはよほど私の怒りの方が接近しているという根拠のない自負はあります)。

 ただ、それで良いんだと思います。例え世の中的に間違った「怒り」でも。

何故なら、社会的、共同体的な「正しさ」と個人の「怒り」は必ずしも一致しないからです。それなのに、

「社会的に正しいとされていることには怒っちゃいけない」

と自分の感情を縛りつけたら、自分がおかしくなります。

 「正」であろうが「負」であろうが感情の表出は絶対押さえてはいけません。もちろん表出の仕方というのは考えなければなりませんが。