責任はとれるのか?

 「責任とれよ」

というのは様々な場面で言われていますね。私が、おそらく責任をとっているだろうと思われる場面として見かけるのは、会社の社長や会長など、いわゆる偉い人たちが、不祥事などが起きた後に行っている引責辞任会見が多いです。

 会見などを見ていて思うのですが、果たして「辞める」という行為は「責任をとった」ことになるのでしょうか。もし仮に責任をとれていないとしたならば、「辞める」以外にどのような行為をすれば「責任をとった」ことになるのでしょう。被害を受けた人に金銭賠償をすれば? 謝罪をして回れば? 「責任はとった」ことになるのでしょうか。はて「責任をとる」とは何でしょうか?

 こういうことをいろいろ考えて、最終的に私が思うことは、

「責任というのは、厳密にはとれない」

ということと、

「そもそも、責任というのが、実体のない幻想にすぎない」

ということです。

 何故そのように考えるに至ったかというと、例えば誰かが誰かのカバンを壊してしまったという比較的起こりやすそうなささいな事柄であっても、同じものを買って返せば良い、あるいは同じ分の代金や修理代金を渡して謝れば良い、それで責任は果たせたとなるかもしれませんが(もちろんそれで済む場合もあるでしょう)、もしカバンの持ち主が、そのカバンの事を心底大事に思っていて、たとい同じものを渡されようが、代金渡されて謝られようが、絶対に許せないと考えていたら、壊してしまった人はその後どうやったって、カバンの持ち主に許してもらうことができませんから、責任はどうしても果たしきれない訳です。

 また、殺人のような比較的重い事柄の場合はもちろん、いくら犯人が死刑になろうが、お金をたくさん受け取ろうが、遺族の人の怒りや、やりきれなさというのは消えません。犯人一人ではどうやったって責任は果たしきれない訳です。

 つまり比較的ささいな事柄から重たい事柄まで、ここにあげていないいろいろの事例を丁寧に追っていっても、被害を受けた側が、どうしても許せないという気持ちを持ち続けた場合、どの事例においても、加害者側が完全に「責任をとる」というのは不可能な訳です。「責任をとりきれる」ということ自体、そもそも幻想だと思うのです。

 

 では、あなたは「責任をとる」というのは厳密には不可能なんだと言うんだから、世の中の「責任をとるべき」とされている行為を全て踏み倒しても良いとでも言うつもりか?と思われるかもしれませんが、私が言いたいのはそういうことではありません。それでは世の中の不満の収まりどころがありませんから。

 ではどう処理するかと言うと、私は、社会において「責任をとる」というのは、一個人単独で成し得るのではなく、共同体の「承認」がある補償行為を行うことによって初めて成立するものだと思うのです。つまり、

『起こしてしまった問題について、何か代わりとなる、共同体によって「承認」された補償行為を行うことによって、納得のいっていない被害者にも、とりあえず形の上だけでも納得してもらうことにより完結する一つの形式みたいなもの』

だと思うんです。「責任」というのは厳密にはとりきれないんだけれども、それでは社会の不満の収まりがつかないから、「辞任」したり、「金銭賠償」したり、「謝罪」したりすることによって、「とりあえず」責任は果たせたことにするより他にやりようがないんだと思います。いわば、現実に存在しない「責任」というものを、共同体の「承認」を補償行為に与えることによって、無理やり具現化しているんだろうと思います。

 

 このことをよく心得ているのが「強請り」を行う人々です。

「あなた、そんな額で責任を果たせたとでも思ってるの?」

といってお金を巻き上げていきます。「責任」というのが共同体の「承認」によって支えられている、実体のない不安定なものだというのをよく知っているんですね。

「そんなもんで責任を果たせたと思っているのか」

というのは「不承認」を意味しますから、強請られる人はいつまでたっても「責任」を果たしたことになりません。

 これは、相手のお金がなくなるまで延々続けることができます。一個人単独では「責任」は果たしきれない何よりの証拠です。「承認」ありきで初めて「責任」というのは成り立つのです。