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「嘲笑」と「困る」は表裏一体

 別に関係無いんだから、ほうっておいてくれたら良いのに、と思うような事でも、わざわざ嘲笑してくる人々がいます。何で、ほうっておけば良いものを、わざわざ馬鹿にして笑ってくるのかが、私にはしばらく分かりませんでした。

 例えば、私の周りで起きた出来事から、私の周りだけではなく、世の中にある風潮まで様々ですが、いくつかそういう現象があります。

 「男性の草食化」を嘲笑する女性、ひいては国家が良い例です。消極的になってきているであるとか、積極的であるとかは男性の問題なのに、何故、一見関係の無いように思える女性が、あるいは国家がわざわざ嘲笑しに出てくるのかが良く分かりません。

 また、「流行に乗らない人」に対する嘲笑も少なからずありますね。

「えー、まだそんなの使ってるの?」

であるとか、

「流行に乗れてないの、まずいよ?」

といって嘲笑してくるパターンですね。別に、流行に乗るか乗らないかは本人の自由なんだからほうっておけば良いものを、何故わざわざ嘲笑しに来るのかが疑問です。

 極めつけは「無職」に対する嘲笑ですね。私も無職ですが(笑)、困るのは私であって(たいして困っていないかもしれませんが・・・ 笑)、まあ百歩譲っても親類や仲の良い友達まででしょう、困るのは。しかし全然関係の無い人がわざわざ、イメージで嘲笑しているというのは特にメディアなどで見られます。

 

 こういった例を見てきて、しかしながら一つ気がついたことがあります。それは、これらの事例に対して、一見困っていないように見える人々も、直接的には困っていないかもしれないけれど、間接的には、実は困っているんじゃないかということです。

 「男性の草食化」について見れば、問題の当事者は男性であるけれども、消極的な男性の数が増えれば、当事者でない女性も、何も恩恵を受けることが無くなって困ってしまう。国家について言えば、結婚をする人々が減っては、国力が下がって困ってしまう、というような事だと思うんです。

 それならば、

「消極的では困ります。是非助けると思って。」

と素直に言えば良いものを、なまじっかプライドがあるから、「嘲笑」して煽ることでなんとかしようとしているというのがとりあえずの所だと思います。

 しかしこの問題が厄介なのは、実はよくよく考えてみると、男性は問題の当事者なのに、一番困っていないということなんです。何故なら、大抵の男性は性的衝動を覚えても、自分で処理すればそれで事足りてしまうからです(だからこそ「草食化」が進んでいるのかもしれませんが・・・)。嘲笑して煽っても、ほぼ無駄だと思います。

 「流行に乗らない人」を嘲笑する人も同様に、流行に乗ってくれないと困る、という思いを背景に抱えているからこそ嘲笑するんだと思います。それは、何かを一緒に共有できないだとか、一緒に楽しめないだとかいう類の「困る」でしょう。少し大袈裟に言えば、その時々の流行に乗らないというのは、共同体の流れに背くとも言えなくはないので、そういう人間が居ては困るという意識も少なからずあるかもしれません。

 「無職」を外野から嘲笑する人々は何に困っているかと言えば、労働力不足を感じている組織・国家は、

「遊んでんじゃねーよ」

という意識があると思いますし、働いている人々は、

「俺も不自由を甘受しているのだから、お前も甘受しろよ」

といった意識があると思います。要するに、自由にやっている人が多くいると、人手が足りなくて困るし、何故我々は不自由を甘受しているのかが分からなくなって困っているのだと思います。

 この問題も実に厄介なことに、昔の人はとにかく、「食うために」働いてきた。しかし今は、「食えるメシ」を大量に捨てるほどメシがあり、家庭もそれなりに余裕がある。こういう状態で「バーン」と勢いよくわざわざ社会に飛び出していかなきゃいけない理由が、私たち無職の方も分からなくなっているんだと思うんです(働いている人々の中でも、変に感じている人はいるでしょう)。

「なぜメシを既に食えているのに、わざわざ貨幣という記号をグルグル回すためだけに頑張んなきゃいけないんだ。」

という疑問はやはり拭えません。立派に働いている人達と同様に、私も良く分からなくて「困って」いるのです。前にも書きましたが、

「これは何のコントです?」

という感覚です。

 

 こうして見てくると、実は「嘲笑」と「困る」は表裏一体なんだということに気づき、わざわざ嘲笑しに来る理由が良く分かりました。そしてこの前まで「嘲笑」しに来ていたはずの人が、ある日突然怒り出す理由も良く分かりました。その背景には「困る」がびっしりとくっついていたんですね。