「苦労をしろ」が前面に出るおかしさ

 「苦労は買ってでもしろ」

であるとか、

 「苦労をしなければダメだ」

という物言いがあります。これらの言は、完全に間違っているとは言わないまでも、やはりどこかおかしいのではないかと感じています。

 というのも、「苦労」が後々の為になったということを伝えたい気持ちはよく分かるのですが、それは、人生を振り返ったとき、結果的に見て「苦労」が後々の為になっていただけで、しかも「苦労」をしたというのは人生の中の一部分だ、ということに気づいていないんじゃないかと思うからです。

 何かやりたいこと、取り組んでいることが先にあって、やっていく内に、しかしながら、楽しい・嬉しいばかりではなく、しんどい・つらいというような「苦労」も伴ってくる。嫌だなあと思いながらもなんとか辛抱してみると、やりたいことがやりたいようにできてくる。そこへきて初めて、

「ああ、嫌だなあと思っていた途中の苦労も、決して無駄ではなかった」

と、気づける。「苦労」がどうとか言うのは、全ての人とは言いませんが、こういう順番の中に起こった出来事の一つだと思うんです。それなのに、「苦労」した部分だけを抽出して、まるで説教を垂れるかのように、

「苦労をしろ」

というのは、やはりどこか変だなと思います。

 それならば、

「好きだと思って一生懸命取り組んでいても、どうしても苦労は避けられない。しかしその苦労を、嫌だなと思いながらも辛抱すると、それからだんだんと楽しくなってくるよ」

と伝えたほうが、話を聞く人もアドバイスとして受け入れやすいと思います。

 「苦労」が後々の為になったというのは、一部分の話で、それが全てではないし、「苦労をしろ」という言葉ばかりが前面に出てくることはおかしいと思います。その他の、楽しかったとか好きであったとかの説明も、省かずに伝えた方がより良いと思いますが、どうでしょう?