孤独死を、野垂れ死にを毛嫌いする理由はなにか

 これ以上ない、万全な状態での死というのは、どういう状況を指すのか。考えは人によって違うかと思いますが、とりあえず、私なりに例を仮定してみると、

『歳は百歳近くになり、もう命もあと僅かであるという余命宣告を受けているので、自分自身である程度の心構えはできている。 もうそろそろかと、病院のベッドに横たわったまま、ほとんど身動きも取れないほどに衰弱しているので、静かに死を待っている。ふと、顔を僅かばかり左右に振ってみれば、ベッドの周りには、最愛の妻、娘、孫が泣きながら立っている。そしてよくよく目を凝らすと、長年付き合った親友も来ているではないか。同じ歳だというのに、あいつはまだまだ元気そうだな、などと思っていると、ふうっと意識が遠のいていき、そのまま眠るように息を引き取った。』

とまあ、このような状況になります。テレビの見過ぎなのか、ドラマにありがちな展開のようにも思えます(笑)。

 反対に、上に挙げた状況のうち、一つの要素も達成せられない死があると仮定します。つまり、

『独り身で、親も子も、もちろん妻も居らず、仲良くしていた友達は、皆先に死んでしまった。それに、病院に行くだけの金が無いので、自分がいつ死ぬのかもわからない。「ああ、俺はいつ死ぬのだろう。もう、そう長くないというのは実感としてあるのだが・・・。」と思いながら、フラフラと街を彷徨い歩いていると、突然意識を失って、バタッとその場に倒れこみ、そのまま還らぬ人となった。』

というような状況です。一見、何とも悲しい最期のようにも思えます。

 しかし、もしも「死」というのが「無に還る」ものであった場合(私は実際に死んだことが無いので、死後の世界があるとか無いとかについては、よくわからないという考えです。なので「無に還る」かどうかも、本当のところはよくわかりません)、先に挙げた「幸せな死」と、後に挙げた「悲しい最期」の違いなんて、取るに足らない些細なものだというように思えてきます。いくら万全な状況を整えようが、結局は「無に還る」のだとすれば、どんなに悲しい最期でも、結局は「無に還る」のだとすれば、特別に状況が整っているからといって喜ぶこともないし、状況が整っていないからといって、ひどく泣き明かすこともない訳です。

 また、仮にもし、死後の世界があったとしても、死んだら皆そこへ行くのならば、これまたどんな状況で死のうが、そんなことは、ほんの些細な違いでしかないでしょう。

 勿論、「その些細な違いを必死こいて求めたいんだ」という人を否定する訳ではありません。そりゃあ、どちらかと言えば、状況が整っている方が良いでしょう。ただ、人間に「死」が平等に訪れる以上、違いというのは、あくまでも些細なものですよ、というのは一応言っておきたいのです。変に状況に期待をかけ過ぎても、後になって「こんなはずではなかった」と思うだけです。

 ですから、世間で忌み嫌われている「孤独死」や「野垂れ死に」も、「どちらかと言えば嫌だな」程度のものでしかないんです。変に毛嫌いする理由は無いように思います。