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「泣くなよ」という言葉の見事さ

嘲笑

 中学時代の話になりますが、クラスメイトが、何か攻撃的な言葉をこちらへと投げかけてきた後、私が返答するかしないかのうちに続けざまに、

「泣くなよ」

と告げてくることがよくありました。

 勿論、涙はそうとうに悲しいことが起こらなければ出てこないタチの人間なので、実際には泣いていないのですが、これが何故だか、この言葉は非常に重みを持って迫ってくるということになかなか驚きました。つまり、泣いていないのにも関わらず、

「泣くなよ」

と言われた後に、いくら、

「いや、泣いてないよ」

「泣くほどのことじゃないよ」

と返しても、それらの返答は全てその空間において、むなしく響いてしまうのです。きっと、どんな返答を用意しようが全てむなしく響くだろうなあという感覚すら覚えました。

 この

「泣くなよ」

という言葉、何故にここまで見事なのか、

「なんなんだこの言葉は」

と、中学生当時考えてみましたが、内実はよく分からないままでした。

 しかし、今少しばかり考えてみると、ある現象のことを思うのです。それは例えば、

『新しい服を買い、それを着て遊びに出かける。その服を自分は物凄く気に入っていて、実際に着たところを自らで見てみても、非常に似合っているように思われる。しかしいざ友達に会ってみると、その新しい服は軒並み不評である。自分はその服が大好きであるのに、徐々に着用しなくなっていく・・・』

といった一連の流れなどに現れますが、本来、服は、自分が好きで気に入っていれば本当はもうそこでゴールのはずなのに、周りから不評であるばっかりに、その有頂天を徐々に失望まで自ら落としていっている訳です。つまり、主観でしかない服の評価というものが、あろうことか他人の判断に沿うように修正されていくという現象が確かに存在するのです。それだけ人間というのは、周囲の評価の影響を受けて生活しているということだと思います。

 これが何故

「泣くなよ」

という言葉の見事さに関係してくるかというと、自らが泣いていないのにもかかわらず、周囲が、

「泣くなよ」

と声をかけることによって、あたかも自分が泣いているかのような影響を受ける、擬似体験させられるからなんです。泣いていなくても、

「泣いている」

という他人の判断が介入することによって、自らの主観は不安定なものとなり、諸に他者の判断の影響を受けて、本当に泣いている状態に立たされたような気がしてくるのです。だから、

「泣いていない」

と、ただ事実を告げただけなのに、言葉がむなしく響いていたのでしょう。

 つまり、

「泣くなよ」

という言葉は、服の例と似て、他者の影響力の強さを全面的に呈示しており、また同時に、服の例と異なって、

「泣いていない人間が、泣いている状況に陥る」

というイリュージョンを成立させているのです。これは見事というより他ありません。