どう考えても「死なないこと」が一番大事

 「死なないこと」というのはこの場合勿論、「自ら」死なないということです。自殺というのは、なんとしても避けなければならないと思います。

 哲学者の中島義道さんも言っていますが、

「生きる」

という仕事に優る仕事というのは他に無いんです。なにせ、「生物」ですから。

 ただ、この、

「生きる」

という仕事が、明らかに優先順位の第一番目から降りているなあ、と感じることは世の中にいくらでもあります。その最たるものが、

「戦争」

ですね。下手すりゃ、

「お国の為に死ぬ」

などと言って、あろうことか死ぬことが優先順位の一番目に来てしまうこともあります。生物にとって、これ程本末転倒な事はありません。

 また、「戦争」まで行かなくとも、もっと身近な例と言いますか、一見平和に見える日常の中にも、平気でこういう例は存在します。

 「名誉欲」

が、

 「生きる」

という仕事を第一位から押しのけて、結果、他者との権力争いに敗れ、屈辱のうちに自殺するというのもこれに当たります。自分が目立つこと・力を手に入れることの方が、生きることより大事な訳がないのに、「生きる」というのはごく当たり前のことのように感じるので、重大さを忘れてしまい、知らず知らずのうちに順位を自分の中で下げてしまうのでしょう。

 「見栄や体裁」

が、

 「生きる」

という仕事を順位から押しのけることもありますね。例えば、子を持つ親にとって、自身の子どもに願う一番のことは、

「とにかく生きていてほしい」

ということであるはずなのに、その子どもが学校に行かなくなる、不登校になると、世間の目を気にして無理やりにでも子どもを学校へ引っ張り出し、子どもは何か理由があるから学校に行きたくなかったはずなのに、学校へ行くことを強制された結果、ついに自殺を選ぶというのがそうです。子どもは、

「生きる」

ということが特に大事だと感じていたからこそ、このままいたら危ないと思っている場所から(この場合は学校から)逃げた訳です。逃げるというのは、そういう意味で立派な生存戦略なんです。その判断を親が、あろうことかないがしろにし、子どもの

「生きる」

という仕事より、自らの

「見栄や体裁」

を優先させて、子どもの逃げ道を断ってしまったら、そりゃ自殺まで追い込まれるのは当然です。

 また、今では少なくなったかと思いますが、政治家の秘書が、政治家の代わりに死ぬというのも、

「生きる」

という仕事をないがしろにしていた例です。尤も、秘書に向かって、代わりに死んでくれるよう頼むというのは、自殺というよりかは、ほぼ殺人に近いような気もしますが、秘書が、

「生きる」

という仕事より、

「不正に対する後処理」

という仕事の方を優先させてしまったというのもまた事実です。この場に残ればどっちみち死ぬ運命しか待っていないのなら、一か八か、追手が来ないほど遠くに逃亡するというのも一つの手だったのではないでしょうか?それによって世間からはとやかく言われるかもしれませんが、

「生きる」

という仕事が一番大事である以上、それがこの場合の最善の策であるように思います。