生死の問題は、元々意思の外にあったはずだが・・・

 前にも書きましたが、相田みつをさんの詩が好きでして、今日の内容に関係のあるものをまた、ひとつ挙げたいと思います。

『いのち

   アノネ にんげんはねえ 自分の意思で この世に生まれて きたわけじゃねんだな だからね 自分の意思で 勝手に死んでは いけねんだよ』

 「自殺をしたらダメだ」

ということを、論理的に述べることは難しいことです。仮に論理を組み立てられたとしても、すぐに崩れてしまうでしょう。しかし、この詩は、理論的に完全とは言い切れないかもしれないけれど、非常に説得力を持った言葉として、こちらへ向かってくるところがあります。

 なるほど確かに、意思を持って生まれてきた訳ではなく、親によって誕生させられているのが子どもというものです。また、よく考えてみると、

「生まれてきた」

ことだけではなく、

「今、生きている」

ことも、自分の意志ではありません。

「よし、今から生きるぞ」

と常々思っていなくたって、心臓は自ずから動いています。そうすると、

「生きている」

というのが、人間の意思の外にあるならば、生と死は表裏一体ですから、

「死ぬ」

というのも、人間の意思の外にあると考えられます。いくら、

「ずっとこの先も生きていくんだ」

と思っていたところで、突発的な事故や病気で死んでしまうのが人間ですから、確かに人間の意思とは関係の無い領域に、「死」というものはあるのでしょう。

 しかしながら、人間は「死」を意図的に、あろうことか自らの意思の下に置くことが出来てしまいました。言うまでもないですが、「自殺」のことです。元々、人間の意思の外にあった、つまりはどうすることも出来なかったはずの「生死」の問題に、「自殺」という形で触れることが出来るようになってしまったのです。

 そうして、「死」を選択できるようになったということは、同時に「生」をも選択できるようになったと錯覚するということです。

「死なない」

という仕方で、「生」をあえて選択しているように考えてしまいます。

 ですから、

「生きよう」

などという、一見おかしな言葉が、世間一般にすんなりと受け容れられるのでしょう。そしてその言葉をすんなりと受け容れてしまう自分がいます。既に述べたように、わざわざ生きようと思わなくても、勝手に生きているというのが実際なのにも関わらずです。

 そこで相田みつをさんは、前述の詩で、

毎秒々々生きようと思っていなくとも、別に勝手に生きているでしょう? そもそも、生まれたのだって、自分の意思じゃない。生死の問題というのは、人間の意思の外にあるんだよ。

 ということを、世の中の人が「生死」を選択できるものと勘違いしているからこそ、しっかりと訴えたかったのだと思います。

 確かに、高層ビルから飛び降りれば、自分の首を切り落とせば、自ずから死ねるのかもしれません。ただ私は、自殺が可能か不可能かに関わらず、「生死」は人間の意思の外にあるものだ。また、そうあった方が良いんじゃないか、と思っています。

生きるだとか死ぬだとかいうことは、流れに身を任すより仕方ないと思っています。