数の多さを、「正しさ」の代わりにしても良いのだろうか・・・

 世の中に、「絶対的に正しいこと」なんていうものは存在しないと思っていて(あるのは現象だけですから)、

「これが正しいんだ」

という、人間の解釈があるだけだと思っています。

 しかし、正しさなんて本当のところは存在しないのだからといって何もしないでいると、共同体のルールも何も無くなってしまって、体制が維持できなくなりますから、

「多くの人に支持されていれば正しい」

であるとか、

「偉大な人物が支持していれば、それは正しいのだ」

というように、各々、「正しさ」を何かに置き換えて対応しているというのが実情だと思います。

 そして、私は別に民主主義を否定したい訳ではないのですが、

「賛成する人の多さで、正しさを決めるという仕方で良いのだろうか?」

ということを疑問に思ってしまい、それに対する答えが出せないでいます。だからと言って、いわゆる「哲人政治」のように、賢い哲学者が意思決定を行う方が良いだとか、そのほうが上手くいくといったことは微塵も思いません。そこには、

「賢い人々ならば、より良い道へ国家を導けるのだ」

という傲慢があるように感じます。

 ただ、民主主義のように、数の多さで正しさを測る方法は、多くの人にとって納得のいく答が得られる一方、危険な方向にも、数が揃ってさえいれば傾いていってしまうという側面もあるように思うのです。

 極端な例を言えば、

「殺人のどこが悪いの?」

という考えの人が、その共同体にとって多数派ならば、

「殺人」

が罪に問われない方向へと、法が変更されるという危険性が、民主主義にはあるんじゃないでしょうか。

 「そんな危険な状況になる訳がない」

と言われるかもしれません。確かに、殺人罪が撤廃されるようなことは、さすがにあり得ないことかもしれませんが、もっと些細な問題、一般に関心が低いとされる問題などの場合、よく善悪の議論がなされないまま、なんとなく良からぬ方向へ、多数の人々が、知らぬうちに傾いていってしまう危険があるのではないか、また既にそういうことが起きているのではないかということを勘繰ってしまいます。

 では、あなたがより良い意思決定の方法を生み出せるのかと言われると、今のところ少し自信がありません・・・。民主主義が今後も最良な形であり続けるのでしょうか?どうなんでしょう・・・。