報道は、権力を持った人間の、ただの個人的な意見表明にすぎない

 報道内容について批判する人々ならびに、報道に携わる人々が、

「報道機関として責任を持ち、使命感を持って、世の中に事実を伝えていく・・・」

ということなどに言及しているのを聞くと、私なぞは、違和感を覚えてしまいます。

 何故というに、私は、報道のことを、

「権力を持った人間が、現象を眺めた上で行う、ただの個人的な意見表明にすぎない」

と思っているからです。それ故に、責任だ使命感だという話が出てくると、

「そんな大袈裟な・・・」

と思ってしまいます。新聞やテレビで、何かについて言及している場面に出くわしても、

「あなたはそう思うんですね」

という感想しか出てこず、批判する気持ちは起こってこないのです。権力を持っているかいないかという違いがあるだけで、報道というのは、我々が現象に対して抱く感想と、さして変わりないような気がします。

 そういった、ただの個人的な意見表明に対して、

「公正さ、中立さ」

を求めても、それは無理というものです。同様に、報道に携わる人間が、それを目標に掲げてもしょうがありません。達成不可能ですから。

 ここまで書いてきて、ぜひとも誤解しないでもらいたいのですが、報道のことを悪く言いたいが為に、このようなことを言っている訳ではないのです。というのも、そもそも、人間が作っているもので、

「公正さ、中立さ」

を達成できるというのが幻想でしかないんだということです。人間が報じている以上、中立地点に立つことは不可能です。どうしても、携わった人の考えが入ります。

 まず、数多ある世の中の現象から、報道する材料を選ぶという、この行為自体が紛れもない個人的な意見の表明です。既にこの時点から中立とはかけ離れています。そして、材料を選んだあと、その中から、これは大きく扱う、これは小さく扱う、これは長い事テーマにして扱っていくという編集作業を行うこと自体も、立派な個人的意見の表明です。そして、実際に報じる段階に入ったとき、報道内容には、現象の説明だけではなく、報道する人間の意見が多分に含まれているということも、周知の事実でしょう。

 このように、報道というものはただの個人的な意見表明にすぎないのに、何故ここまで批判が起こるのかということが、私にはちょっと分かりかねます。少し期待を持ちすぎなのではないでしょうか。近所のおばさん達が、世の中のことについて適当なことを喋って盛り上がっているのと、その実たいして変わりないものだと思えば、批判をする気持ちも少しは収まるのではないかと思います。