煩わしさから逃れたいという思いと密接不可分

 私はよくこのブログの中で、種の保存について責めるような物言いをします。それは別に、種の保存をしてはいけないと思っている訳ではないのですが、子どもを産むという残酷さについては承知していなければならない、承知していなかったというのは許されないぞという強い思いがあって、そのような発言に及んでいるということは確かなのです。

 それはあまりにも厳しい態度だと思われるかもしれませんが、何のことやら分からず急に世の中に誕生させられる子どもの理不尽を思えば、別にどうってことありません。残酷さを承知していなかった親の下に産み出された子どもの不幸を想像してみてください。

 しかしこのような、世間から見ると多少ひね曲がっている私の道徳意識というのも、実は、私自身の中にある一種の「欲望」と密接不可分なものなのであります。つまり、純粋な道徳意識ではなく、その意識の中には、自らのエゴイズムも多分に含まれているのです。それは、

「煩わしさから逃れたい」

という欲望です。

 自らが子どもを持てば、当然それなりの制約が生まれるでしょうし、自分のことを第一に置くという訳にはいかなくなると思います。「これがやりたい」と思っていることがあったとしても、子どものことを第一に考えれば断念せざるを得ないという状況も、ことによっては立ち現れてくるでしょう。

 はっきりと言いますが、私はそういうことには耐えられないのです。そこ(家族を形成すること)に幸福を見るという社会的な価値観とは、どうにも折り合えません。

 ですから、非常に道徳的な考を進めていると自らに思い込ませて、そこのところの反社会的な欲望については見ないようにしてきたという部分があることは否定できないのです。確かに、種の保存は残酷であるという考えも嘘ではないですし、なかなかに的を射ていると自分でも思っているのですが、その考えは純粋な道徳意識から出発したものではなく、

「煩わしさから逃れたい」

という、自らの欲望と密接不可分な道徳意識なのです。