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発狂は、どこかぎこちなく映る

 人間には与えられた使命などなく、やらなければならないこともない。そして、人間は何がしかの物語を形成したがるけれども、実際のところ、命が私のところまで脈々と受け継がれてきたのもただの偶然でしかなく、その後、私が先祖と同じように生命を繋ぐか、あるいは繋がないか、なんていうことには別に何の意味もない。

 これら様々なことから襲ってくる虚無感に、のべつ向き合っていたんじゃ発狂してしまう(実際に、これらのことに真正面にぶつかって発狂した人は、歴史上に数多存在したことでしょう)。それが為に、根源的な虚無を忘れさせる一時的なごまかしが必要なんだという話を、『幸福とは』などで書いてきました。

 しかし、この虚無感に、のべつ向き合っていたからといって、本当に発狂してしまうのか、むしろ今の自分は虚無を見据えながら非常に落ち着いているんじゃないか、という疑問が頭をもたげてきました。

 というのも、発狂している自分というのが、どうにも想像できないと言いますか、そこを何とか頑張って思い浮かべてみても、どこかぎこちないというか、なんとなく、発狂している自分が嘘っぽく映るのです。

 勿論それは、今までの歴史上で発狂していった人達が、嘘をついていたと言いますか、演技だったのではないかという指摘ではないのです。その人達は過去、本当に発狂していたのでしょう。ただ、それがこと私に関しての話になりますと、どうしようもなく、発狂している自分が嘘っぽく映って仕方がないのです。

 この差は何なのだろうと考えてみましたが、おそらく私は、

「発狂するほど純粋でもなければ、真面目でもない」

のだろうという思いに至りました。

 養老孟司さんは、少なくとも一つの身体の中に、人間が二人は居るというようなことを言っていましたが(養老さんの言葉ではなかったかもしれません・・・笑 確か養老さんだったと思います・・・ 間違っていたらすいません、ご指摘ください・・・)、そこが何かのはずみで一つにならないと、発狂まで至らないような気がするのです。つまり、自分の中に複数の人間を抱えたまま発狂したとしても、その発狂を冷めた目で見ている私が存在する限りは、発狂が加速していかないんです。

「何やってんの、お前」

と、発狂を見ている自分が居れば、スーッと冷めてくるだろうと思います。

 ですから、発狂をしていく人たちは、純粋さゆえか、真面目さゆえかは分かりませんが、どこかのタイミングで、複数の私が一つになってしまい、冷静に観察するもうひとりの自分を失ったのだと思います。

 それに対して私は、発狂しそうになる私が仮にいたとしても、常にそれを冷めた目で見続ける私も同時に存在するので、どこか発狂している自分というのは嘘くさく映ってしまうんだと思います。