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根本に虚無を据えるのは悲観ではなく・・・

虚無

 人によって捉え方は異なるかと思いますが、

「この世の中も、人間も、存在すること自体には何の意味もない」

という言説に触れたとき、私の場合は、絶望してしまうのではなく、むしろ物凄く安心するんです。実際のところ、この世に意味があるのかそれともないのか、ということを確かめる術を、人間は持っていないので、

「根本は虚無だ」

という捉え方は、ほとんど信仰に近い部分があるのかもしれません。つまりは、根本が虚無であるかどうかは分からないけれども、しかしながら安心するという理由の為に、根本に虚無を据えているのです。

 大体、所詮は虚無だということを好んで使っていると、何やら悲観的な考えの持ち主なんだなあ、と思われてしまうかもしれませんが、前述のように、根本は虚無だという考えに絶望はついてきませんし、決して世の中に悲観的な訳ではなく、むしろ、

「何の意味もない方が助かるし、もし人間に使命などが用意されていたら、邪魔くさくて仕方ない」

と思っているのです。

 では、

「何の意味もないというならば、人間社会はどうなっても良いとでも言うのか」

 という怒りを持つ方がいるかもしれませんが、そんな風には微塵も思っていない訳です。私も、人間を人間とも思わないような扱いが社会の中で起きていることに対しては、それ相応の憤りがありますし、より多くの人が快適に暮らせる社会を実現するための努力が行われることは非常に好ましい事だと思っているのです。

 要するに、根本のところは虚無か、はたまたそうでないのかということと、これは社会にとって好ましいのか、それとも好ましくないのかということは、全く別の問題なのです。

 それに別の問題であるがゆえに、虚無と、社会の改善への志を持つ気持ちは両立可能ですし、むしろ根本に虚無を据えていた方が、表層の部分、つまりは社会における柔軟性、自在さは高まるのではないかとさえ思っています。

 というのも、人間は、

「これが社会にとって好ましい」

と考えていても、後になって振り返ってみると、そうでもなかったという間違いを犯してしまう生き物ですから、当然、良くない選択をしてしまった後の方向性の変更は、出来るだけ素早い方が良い訳です。その段になって例えば、根本に意味を据えていた場合に、「奴隷制度」のような明らかに良くないシステムの場合であっても、

「明らかに良くないシステムだとは思うけど、これは先人が考え出したもので、何かしらの意味があるんじゃないか・・・」

となってしまい、意味が邪魔になって自在さを失うんじゃないかと思うのです。対して根本に虚無を据えていれば、

「こんなものに意味なんかないんだから、良くないものはさっさと変えないと」

と、意味を重要視する場合よりも、動きの自在度が高いような気がします。