結婚しないという自由は、いまだ完全な自由ではないのかもしれない

 私は、自らの両親の関係を目の当たりにしていること、子を産むということの残酷さを考えていることなどから、結婚については良いイメージを持っておらず、

「絶対に一人で死ぬ」

と半ば意固地になっているところがあります。

 幸いなことに、世の中の方でも、結婚しなければ何らかの罪を受けさせられるということにはなっていませんし、制度の上では、

「結婚しない自由」

というのが認められていると思います。

 しかし、人々の精神面、言い換えれば、曖昧で捉えにくい社会の空気的側面では、

「結婚しない自由」

は、どこか完全な自由として認められていないような気がしてしまいます。

 というのも、

「結婚する自由」

と、

「結婚しない自由」

が、自由の名の下に対等であるならば、ある人が、

「私は結婚したいと思っています(あるいは思っていません)」

と発言したときに、それを聞いた周囲の人間に、そこまで反応の差がつかないはずであると思うからです。

 しかし現実には、

「結婚したくありません」

と答えた人間に、

「何故結婚したくないのか」

ということを探るための質問が次々に寄せられます。その根底にはおそらく、この人には何か深い傷、ないしは重大な欠陥があるのだろう、そうでなければ結婚したくないなどと言いだすはずはないからだ、という決めつけがあるように思います。つまり、結婚したいと思うのが正常で、結婚したくないと思うのは何らかの異常があるという決めつけです。

 しかし、結婚が自由なものである以上、結婚したいかしたくないかは選択の問題ですから、正常・異常の問題ではないんです。

「結婚しない」

というのはあくまでも選択肢の一つに過ぎないのです。自由であると認めておきながら、

「しない自由」

を選びとる人間を異常だと判定するのはそれこそおかしな考え方です。そういう考えがいまだに根強くあるということは、

「結婚しない自由」

がまだ完全な自由として認識されていないということでしょう。

 ですから今後、結婚するかしないかはただの選択の違いでしかないんだということが、より多くの人に認識されて、

「結婚しない自由」

が制度の上だけではなく、社会の空気的に見ても完全な自由になっていくことを心から望んでいます。