「結婚しない自由を認めたくとも、感情がついてこない」という気持ちも分かるには分かる

 昨日、結婚しない自由がもっと普通に社会で受け容れられるようになってくれたら、ということを書きましたが、一方で、

「認めたいのはやまやまだけど、感情がついてこないよ・・・」

と言いたくなる人の気持ちも、少しは分かります。何でかというと、結婚しないという自由を選びとるということは、

「もうこれ以上私は、命を受け継いでいくつもりはありませんよ」

ということを態度で示しているに等しいですから、

「それは人間社会の存続そのものに異議を唱えている、ないしはそのまま存続の否定につながっているのではないか」

というような反感を抱き、何か一言文句を言いたいような気持ちに駆られてしまうことも当然あると思うからです。

 また、

「結婚して子どもを産んでくれなければ日本が困る」

というような文句を持ってしまう人もいるでしょう。こういう文句を見ると私は、

「政治家みたいなこと言ってらあ」

と思ってしまうのですが(笑)、そういう感想を抱くということは、本物の政治家の方などは、この問題に本当に苦しんでいるかもしれません。またその気持ちも少しは分かります。

 しかし多少分かる部分はあるにせよ、やはり制度の上では自由なのだから、

「結婚する自由」

と同程度の尊重が、

「結婚しない自由」

に与えられてしかるべきという考え方は変わらないですし、そもそも、結婚は親が決めたり、家柄で決めたり、というのを主役の座から降ろし、自由な恋愛の後に結婚があるというのが主流になってもうだいぶ経つのに、何をいまさら、結婚しない自由の台頭にあたふたしているんだという感想を抱いています。

 何事も、自由に任せておけば、

「する自由」

だけでなく、

「しない自由」

もそれなりに出てくるのが当たり前です。もし、自由恋愛の後結婚するというのを主役に据えたときに、将来の、結婚しない自由の台頭を全く予期していなかったというのならば、それはあまりにも考えが浅かったというより他ありません。