考えないのは別に構わないが、「異常」の判定を何の疑問も持たずに受け容れているのは怖い

 以前に、『数の多さを、「正しさ」の代わりにしても良いのだろうか』や、『「とりあえず」という認識』の中で書いたことに繋がりますが、そもそも、突き詰めていくと、絶対的に「正しい」であるとか「正常だ」というものは存在せず(これは『「かのように」という鷗外の姿勢~』にも関係してきますね。というよりは、私の根底には「かのように」という思想が横たわっていますから、必然的に、私が扱う全てのテーマには、「かのように」が関わってくる、と言った方が正確かもしれません)、そうすると反対に、「正しくない」であるとか、「異常だ」といったようなものも、絶対的な判断基準をもとにして決められている訳ではなく、その時々の「正しさ」や「正常」とされるものとの対比、相対で決められている可変的なものと言うことができると思います。

 そして、『かのように』の中で秀麿が考えていたように、「正しさ」なんてものはないんだ、と言い切ったまま放っておいたらそれは危険思想になりかねませんから、世の中の方で、「とりあえずの正しさ」を決めることそれ自体には異論はありませんし(「正しさ」の内容については異論を挟む可能性はありますが)、それに伴い、結局は「異常」さえも勝手に定義することになることについても、私は否定しません。

 しかし、

「何が正常で何が異常なのか、そもそも正常だとか異常だとかは存在しないんじゃないか、とりあえずの判断で勝手に決めているだけなんじゃないか」

ということを、世間の人々が考えていなくてもそれは別にかまわないとしても(そんなことをしょっちゅう考えていたら少し・・・というか大分おかしくなります 笑)、誰かが「とりあえず」で決めた「異常」の定義を、基準を、何の疑いもなく受け容れていってしまうことには、多少なりとも恐怖を覚えます。

 自身の頭で、

「おかしい、異常だ」

と思ったからではなく、世間の方でとりあえずそれは「異常」だとされているから、

「おかしい、異常だ」

と発言している人は、その後その価値観自体がまるでひっくり返ってしまったときに、何を思うのでしょう。何も思わず、自分の発言は忘れて、新しい正常・異常の価値観にすぐに順応していくのでしょうか。それはとてもこわいことのように思います。