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ドッジボールが上手い人は、皆にドッジボールをやらせたい

経済もどき 嘲笑

 日頃から疑問に思っていて、だからといって、別に私が何か改善案を打ち出せるわけではないのですが、

「おかしいなあ・・・」

という思いだけは忘れないようにしたいと思っていることがあります。

 それは何かというと、

「日本は世界の中でも大分豊かな国の方に属するはずなのに、一体全体誰に頼まれて、何のためにこんなに余裕なく、精神を病むほど人々は働いているのだろう」

ということです。日本よりもっと貧しい国、経済的に厳しい国であっても、もう少し余裕を持って働いているところはあるはずです。

 おそらく、わざわざ過剰に働かせていることにはいくつかの理由があると思いますし、その全ての理由を掴むことは出来ませんが、理由のうちの一つには、こういうものがあるのではないかということを思いました。

 例えば、学校という場所を例にとって考えてみた場合、その学校の生徒に、A君という、物凄くドッジボールの上手い子どもがいたとします。しかし、いくらドッジボールが上手くても、クラスメイトが皆、各々砂場で遊んだり、屋上で昼寝をしていたり、校内で雑談をしていたりと、てんでバラバラな遊びをしていて、A君に構ってくれなかったら、A君はドッジボールの腕前を発揮しようがありません。

 そこで、A君は自己満足の為に、クラスメイトを無理やりにでもドッジボールに参加させたいという気持ちが(実際に行動に移すかは別として)起きてくるのではないかと思うんです。

 この気持ちというか、欲望は、「ドッジボール」をそのまま「経済競争」に置き換えたとしても、それなりに当てはまるのではないでしょうか。つまり、いくら、

「俺はこんなに稼いでいて、経済競争で勝利を収めている。どうだ凄いだろ」

と言っても、皆が「経済競争」に本腰を入れていなかったならば、その自慢というのはどこまでもむなしく響く訳です。一人だけ頑張ってドッジボールをやっているようなものですから。

 よって、「経済競争」が得意な人、優位な位置を取れる人は、皆にも必死になって「経済競争」に参加してほしい(その方が楽しいから)と思っていて、しかし無理やりに他人を必死にさせることはできないから、社会に参入した瞬間に、誰でも「必死の経済競争」に否応なく組み込まれるような仕組みをつくってしまったのではないか、というようなことを思うのです。つまり、無類のドッジボール好きに巻き込まれて、四六時中ドッジボールをさせられているような状態です。これは、四六時中「経済競争」をしていたい人には嬉しい枠組みですが、そうでない人には苦痛でしかありません。

 なるほどそういう解釈を試みてみると、暇人に対して、

「暇だなあ」

と嘲笑したかと思えば、次の瞬間には、

「何をのんびりやっているんだ」

と血相を変えて怒る矛盾についても、よく分かるような気がします。つまり暇人は、

ドッジボールに参加していない(あるいは本気でやっていない)」

ので、皆に「ドッジボール」に必死で参加してもらいたいと思っている人は、暇人には腹が立つのでしょう。そうすると嘲笑は、「参加してほしい」という気持ちの裏返しでしょうか。

 もちろん、無類のドッジボール好きは、好きでやっているのなら大いに結構なのですが、大方の人は、

ドッジボール(経済競争)は授業(仕事の一環)としてやる分には良いけど、他の授業も受けたいし、休み時間には他の遊びもしたい」

というのが正直な心情なのではないでしょうか。

 もちろん、「経済競争」も重要であることは分かるのですが、

「豊かである」

というのは、四六時中「経済競争」をしていることではなく、

「仕事」「遊び」「運動」「自分の勉強」

などのバランスがとれていることを指すのではないかと思います。少なくとも私はその方が「豊か」だと思います。