頭の中で遊べれば、それに越したことはないのでは

 昨日、NHKEテレで、『SWITCHインタビュー 達人達』という対談番組がやっていて、それを見ていたのですが、一人は千日回峰行を成し遂げたお坊さんで、もう一人は、探検家の方でした。

 その中で、お二方とも、極限状態に行かなければ見えてこないものがあるという話をお互いに繰り出し、盛り上がっていました。しかし一方で、極限状態まで行くことを経験すると、もっともっとという気持ちがエスカレートしていき(探検などは特に)、それによって死ぬ人も大勢いるんだ、ということも話していました。

 ここまでは私も楽しんで聞いていたのですが、その後、探検家の方が、

「徐々に探検などがエスカレートしていくのは、探検家の想像力が拡がっているからだ」

というような趣旨のことを口にしていて、それについては疑問を覚えました。というのも、エスカレートしていくことは出来るだけ避けなければならないという意識が私の中にはあるため、探検家という性質上仕方がないのかもしれないけれども、エスカレートを肯定するような発言はまずいのではないかと思ったからというのと、

「想像力が拡がっているというが、それは逆なのではないか」

と思ったからです。

 想像力というのは文字通り、

「像を想う力」

ですから、探検を引き合いに出せば、極限状態にわざわざ向かわなくても、極限状態というのはおそらくこうであろうと思いめぐらすことが出来る力を想像力と呼ぶのだと思うんです。そうすると、エスカレートしていく気持ちの高まりというのは、反対に、想像力が欠如していっている為に起こっているのではないかと思います。

 では何故想像力の欠如が進み、探検はエスカレートしていくのか。それは、所詮は頭の中の観念でしかない想像力よりも、実体験から得られる訴えかけの方が明らかに強いが為であると思います。つまり、想像力が拡がっているからエスカレートするのではなくて、想像力などという曖昧で実体のないものは、実体験が与えてくれる強さに敵わないが故に次々に削ぎ落され、実体験を求める衝動ばかりが残り、結果的に行動はどんどんとエスカレートしていっているのだと思うということです。

 勿論、実際に経験することが大事じゃないという訳ではありませんし、何がしかの経験を得る前に、観念でもって想像力でもって既にその経験から得る結論を予想し、その結論が、経験を経たうえでの結論と合致した場合でも、実際に経験するとしないとじゃ、得られた結論は同じでも、質感がまるで違うということはよく分かります。

 ただ、全てにおいてその質感の違いを求めること、その質感を捉えるためならば極限状態に飛び込んでいくことも厭わない姿勢というのには、あまり賛同できないし、それを求め始めればキリがないから、エスカレートしないために、観念で想像力で留めておくのは、実は凄く大事なことなんじゃないかということはひとつ言っておきたいのでした。

 つまり、経験もしないで頭の中の考えだけで物を言っているというのは、確かに本質をとらえていない面もあるかもしれないけれども、だからといって全てにおいて本質的体験を求めるあまり、極限的状態も厭わず、最終的には死をも厭わないというところまでエスカレートしてしまうのなら、観念で想像力で遊んで済ますというのは、ひとつの抑止(わざわざ死に向かうような事をすることの回避)に成り得るんじゃないかということです。