以前、『頭の中で遊べれば、それに越したことはないのでは』の中で、想像力が失われていき、わざわざ死に向かおうとする修行(冒険)の危うさというのを指摘しましたが、翻って自分自身を見てみるに、死の危険を冒すほどの修行に取り組みたいという気持ちは無いものの、そこまでいかない(死の危険を冒すまではいかない)ならば、確かに、
「修行に取り組んでみたい」
という気持ちが、自分自身の中にあることを認めました。
しかし何故、わざわざ己を苦しめるような、「修行」というものに取り組みたいという気持ちが起こってくるのでしょう。
おそらくその根幹には、
「退屈を紛らわせたい」
であるとか、
「人生において、修行の一つもないのは、なんだか物足りない」
といった、飢餓感のようなものがあるのだと思います。
そして、その根幹から伸びてくる枝葉というのは、人によって各々異なるのではないかと思いますが、では、私の枝葉はどういうものだろうと考えたとき、ひとつは、
「修行を越えてきた人物に対する憧れ」
が、そうなのだろうと思いました。つまり、修行を越えてきた人物の語る言葉、顔つき、肉体などが、常人のそれとまるで異なっていることを発見し、
「私も、修行を経たら、ああいった人物の仲間入りが出来るのかもしれない」
と考えるようになって、その流れで次第に、修行という行為それ自体にも惹かれている、ということが確かにあるのだと思います。
もうひとつは、
「肉体的負荷が快楽に繋がっていることを知っている」
というのがそうだなと思いました。つまり、修行者ほどの激しい鍛錬を積んだことはなくとも、日常的に家で出来る軽い筋トレのようなものを経過するだけで、既にある種の快楽を得られるということを、経験として知っていますから、
「もしあのような激しい修行を行えば、今までに得たことのない快楽を得られるかもしれない」
という想像が生まれ、結果として修行に憧れているという面はあるのだと思います。
そして最後にもうひとつ、
「一旦自分を追い込まないと、きっと私はこのままダメになるんじゃないか」
という意識が、修行に対する憧れの枝葉のひとつを形成していると思いました。
「何故ダメになると思うのか。修行を行っていなくたって立派に生きている人はいっぱいいるではないか」
というのは頭では分かるのですが、それでもどこかで、
「しかし私は修行をどこかのタイミングで行わなければいけないタイプの人間だ」
というように思っているのです。それは、自らの怠惰性をよく自覚している為かもしれません。