「何故人を殺してはいけないの?」と質問する子どもには

 先生や大人を驚かす、子どもからの質問の定番として、

「何故人を殺してはいけないの?」

という問いがあるかと思いますが、これを聞いた大人は、

「どうしてそんなことを疑問に思うんだ? 当たり前のことじゃないか!」

「この子は頭がおかしいんじゃないか・・・」

というような感想を持つ場合が多いのではないでしょうか。

 ただ、私が思うには、そういうことを質問する子どもは、何も、頭がおかしいとか、今後何のためらいもなく人を殺す可能性が高いという訳ではなく(一部、そういう子もいるにはいるかもしれませんが)、大概は、

「理屈で詰められないじゃないか」

ということを言いたいのだろうというように思います。

 「あなたたち大人は全部理屈で詰められるかのような顔をしているけれども、こと殺人の話になると、やれ法律だからとか、やれ道徳だとか、そんなのは当たり前だとかいうところに逃げて、全然理屈を詰められていないじゃないか」

という気持ちがあるのではないでしょうか。また、大人がそこを詰められないことを知って、あえてそこを責めることで面白がっているのかもしれません。

 ですから、質問に対して大人がうろたえてしまえば、子どもは「勝った」と思って喜びますし、逆に、その質問に対して腹を立ててしまい、

「そんなことも分からないようなら、力ずくで分からせる」

といった具合に、肉体的な制裁を加えてしまっては、結果として、子どもに恐怖心と大人に対する恨みの気持ちを植え付けてしまうだけです。どちらの対応でもこれでは、何ら質問に対する答えとはなっていません。

 では、どのように答えたらいいのか。私は、はっきりと、

「それに関しては理屈を詰めることはできないんだ」

と答えるのが良いと思います。というのも、ざっと歴史を振り返ってみれば分かることですが、戦争と平和を繰り返しながらなんとかここまで繋いできたなかで、もし、戦争のたびに、

「最後の一人となるまで戦いは終わらせない」

という姿勢で臨んでいたら、もうとっくに人類は絶滅しているはずです。しかし実際はそうはならず、戦争のたびに、

「もう良いだろう。いつまでも馬鹿みたいに争うのはよそう」

と人間が思ってきたからこそ、何とか今まで繋がってきてる訳です。そうすると、

「人を殺す」

ことに対するブレーキは過去どうやって踏まれてきたかと言えば、それは理屈ではなくて、

「もうこんなことイヤだからやめよう」

という感情によって踏まれてきたのだと思うんです。

 ですから、

「何故人を殺してはいけないのか」

ということを理屈で詰められないのは、いわば当たり前なんじゃないかとさえ思います。出発点が感情ですから。

「人を殺すことはダメだ」

とされる土台に横たわるのは、

「痛い」「苦しい」「むなしい」「悲しい」

などといったような感情だと思います。そもそもが理屈ではないのです。

 もし無理やり理屈のように返答するとすれば、

「それは、つまるところ大概の人がイヤだからだよ」

とするより仕方ないのではないでしょうか。