「これを習って何になる」「何か役に立つのか」という気持ちの処理

 (学生であってもなくても)何か苦手な科目、授業などに直面していると、

「一体これを習って何になるんだ」

であるとか、

「これをやると何か役に立つのか」

などという思いを、口に出すか出さないかに関わらず、持ってしまうことがあるのではないかと思います。

 私も、生意気な生徒ではありましたが、さすがに直接口に出して言うのは失礼だと思ったので言わなかったものの、苦手な授業を受けていて、

「何でこんなことやらなきゃいけないんだよ」

と思ったことは何度かあります。

 その反対に、こと好きな科目に関しては、その瞬間に別段の意味をその教科に見出していなくても、

「これをやったから何になるんだよ」

という文句は心のうちから出てこないんですね。

 そうすると、苦手な科目に対して、

「これをやったからって・・・」

と悪態をついてしまうのは、別に、本当にその教科に意味がないと確信することが出来たからな訳ではなくて、ただただ苦手だから、一種拗ねるかのように、

「だってどうせ意味ないじゃん」

というところに逃げていただけだということが分かりました。

 それに何の意味もない教科というのは存在せず、意味がないように見えるのは、自分がその教科に意味を見いだせていない、意味を吹き込めていないというだけの話なのです。

 ただ、

「これを習って何になる」

「何か役に立つのか」

という発言が、例え「拗ね」だとしても自分のうちから出てくるということは、何か自分の中で疑問や不満に思っていることが確かにあるということだと思うので、そこのところの疑問をもう少し掘っていけば、根本の悩みにぶつかるかもしれないと思い、少し掘ってみたところ、

「これを習って何になる」

という疑問と不満はつまるところ、

「そもそもこの科目のルーツは何なのか」

という純粋な疑問を根本にしていることが分かりました。つまり、これを習ったからって何になるんだという疑問と不満から、丁寧に不満を取り除き、疑問自体をさらに深く掘っていくと、

「一体この科目はどういう背景をもとにして生まれたのだろう」

という純粋な疑問のところへ辿り着いたということです。

 これを受けて、なるほど確かに苦手としている科目というのは大概、根本・起源をよく把握していないから、自分自身がその科目にのめり込んでいけていないことが多いなあと思ったのでした。

 そうすると、苦手な科目の背景や起源など、根本からすくっていけば、時間はかかるかもしれませんが、

「これを習って何になる」

という不満は解消されるかもしれません。

 また、

「何か役に立つのか」

という疑問と不満を掘っていった先には、

「その科目が生まれた後に起きた変化、それに伴う喜びを知りたい」

という思いがありました。つまり、今何か役に立つかどうかというのは、「拗ね」故に出た、ひねれた発言というだけで、本当はそんなことを確認したい訳ではなく、

「この科目があったことによってどんな進歩があり、また、それを発見した人たちには、どんな喜びがあったのか」

ということを聞きたいという気持ちがあったのです。

 そうすると、これまた時間はかかるかもしれませんが、その科目を取り巻く流れ、それに伴った人々の喜びを丁寧にあたっていけば、

「何の役に立つのか」

という自分のなかのひねれた不満は解消されるかもしれません。