以前、『考えないのは別に構わないが、「異常」の判定を何の疑問も持たずに受け容れているのは怖い』というものを書いたのですが、世の中の「当たり前」と自分との齟齬に苦しんだことすらない、むしろ自分自身が「当たり前」それ自体であり、「当たり前」そのものであるというような人は確かに存在します。
これは私にとっては驚くべきことですが、当人は、自らが「当たり前」と同化していることに対して、さして疑問は無いようです。それどころか、「当たり前」と同化できていない私のような人間がおかしくって仕方ないといったような調子です。
ですからお互いがお互いのことを、
「どうしてそんなことになってしまうのか。それで(「当たり前」と同化していて、あるいは「当たり前」と同化していないで)平気なのか」
と思っているのです。何とも不思議なことです。
自身が「当たり前」そのものであればおそらく、一種の信念だとか、
「これは絶対に避ける」
といったような決意みたいなものもないでしょうから(そうでないと、「当たり前」と同化することは出来ません。あえて言えば、「当たり前」と、とにかく同化するという信念はあるかもしれません)、世の中の「当たり前」が変わってしまえば、次の瞬間には、その人の言っていることはまるで逆になっているというようなことも、きっと「当たり前」にあるのでしょう。
例えば、
男:「ねえ、年内には僕たち結婚しようね」
女:「ホント!? 嬉しい! でもどうして急に?」
男:「何言ってんだよ。仲の良い男女が結婚するのは世の中では当たり前だろ?」
~次の日~
女:「ねえ、昨日言ってくれた結婚の話だけど・・・」
男:「えっ?何言ってんだよ。結婚なんかしないよ」
女:「えっ!? どうして?だって昨日・・・」
男:「いやあ困ったなあ・・・、昨日の夜のニュース見なかったの? いまや、仲の良い男女が結婚するのは当たり前のことじゃないんだって。それだったら結婚なんかしないに決まってるじゃないか。当たり前だろ?」
といった具合に。