中間がない

 今まで全く出来なかったことが、ひとたび出来るようになると、何故今まであんなことが出来ずに苦しんでいたのかが分からなくなる。

 ということは良くあると思います。例えば、私は今当たり前に立って歩くことが出来ていますが、当然赤ん坊の時は立って歩くことすらできなかった訳です。しかし、ひとたび歩けるようになってしまうと、何故赤ん坊の時分、あんなに立って歩くことを習得するのに苦労したのか、自分でもよく分からないというようなことになってしまっています。

 「どうして歩けるようになったのか」

 「何故、なかなか歩けるようにならなかったのか」

歩けない状態から、歩ける状態になるというのは本当に大変なことなはずで、そこには沢山の苦労があったはずなんです。しかし、ひとたび歩き出すことが出来てさえしまえば、そんなことで苦労してすらいない、全く苦労しなかったんじゃないかとさえ思えてしまうほどの心持に一瞬で変わってしまいます。

 「今までは歩けなかったけど、何だか分からないがこの感覚を徐々に磨いていけば、次第に歩き出せそうな気がする。歩けるという所まで徐々に近づいてきている気がする」

という、いわば「中間」に位置するもの、歩けない状態から歩ける状態に移行する、「過程」みたいなものが、ほぼない、あるいは記憶の中に存在しないというようなことになっているのです。

 この、「中間」を忘れるという技術は、もちろん良い方にも当然作用するでしょう。出来なかった時の記憶などさっさと忘れて、成功体験だけを身体に残してしまえば、生活がより快適になり得ますから。

 しかし、その代償と言えるのか、ひとつの問題が残ります。それは、

「皆が、中間と呼べる過程のことをほぼ忘れてしまうことによって、何かの物事を出来るようになった人と、未だ出来るようになっていない人との間で、橋渡しが難しくなる」

ということです。何かの物事が未だ出来るようになっておらず、その技術を習得したいと望む人が、出来る人にアドバイスを求めるのは、

「出来ない状態から出来る状態にどのように移行したか」

という、その「過程」のところなのですが、何かの物事が既に出来るようになっている人は、前述の通り、その「中間部分」をすっぽり忘れているのです。ですから、

「とりあえず、やってみれば分かるよ、やってみなよ」

程度の、アドバイスと言えるのかどうかも分からないようなことしか言えない、ということが起きます。

 もちろんこれは、アドバイスをする側が悪いということではなくて、その「中間」部分というのは、これから技術習得する人にとって大事な部分だとは分かっていても、誰もが、どうしても思い出せないというようなことになってしまっている部分なのだということです。

 もしこの「中間」を上手く捕まえられれば、技術継承というのはもっとスムーズになるのでしょうが、なかなかに難しいところです。