全部分かっている自分と全部疑っている自分

 ドアが施錠されていることを確認する。よし、閉まっている。出発しよう。・・・いや待てよ、もう一度確認してみよう。うん、大丈夫だ、出発しよう。・・・いやいや待てよ、もう一度確認して・・・。

 自宅の玄関前で、こんなことをしている自分が心配になるのはもとより、しょっちゅう確認してしまう自分が、なんとなくおかしくて、自分で自分のことを笑ってしまう。

 というのも、私は、一度目でちゃんと施錠がなされていることを確認して、鍵がしっかりとかかっているというのを全部分かった上で、二度目の確認をわざわざしに行っているのだから、それがアホらしくて、自分のことながらなんだか笑ってしまうのだ。何故、鍵がかかっていると分かっているのに、わざわざそんな余計なことをするのだろう。

 それは、私の中には、

「全部分かっている自分」

の他に、

「全部疑っている自分」

というのが居るためであるからで、分かっていながらもついつい二度目の確認をしてしまうときというのは、自分の中で、

「全部疑っている自分」

が幅を利かせていることが多い。

 「全部疑っている自分」

は、仮に、

「全部分かっている自分」

が、(鍵については心配しなくても大丈夫ですよ)と言っていたとしても、

 (それはお前の、「鍵がかかっていてほしい」という望みに応えるために作りだされた、都合のいいニセの現実なんじゃないか? 本当は鍵がかかっていないんじゃないか?)

と返してくる。そしてどうやら、そのせめぎ合いで、鍵を確認する回数が日に拠って増えたり減ったりしているようだ。

 だから、

「全部疑っている自分」

が自分の中で優勢なときには、

「全部分かっている自分」

の方でもって、しっかりと施錠されているという事実を確認していたとしても、何度も何度も鍵の確認をし直すという、滑稽なことをしてしまう可能性が高くなる。