皆で望まぬ我慢をしていないか? していないのなら良いのだが・・・

 「彼女がいようが、他の女の人と良いことをしたいと思うことは、やっぱりあるよ」

と、ある人が言った。その発言がなされるや否や、その人は非難の嵐に見舞われていた。しかし、私はその人のことを素直な人だと思った。

 それに、非難していた人達も、正直に言ってしまえば、そういう気持ちを抱いてしまうことがあるのではないかと思った。綺麗な人を見て欲情したりというのは、「カップル」という契約関係に入った瞬間に突然失われる類の感情ではないだろう。それは、理性でもってどうにかなることではない。

 契約関係に入れば、即座に、その相手以外に欲情するというスイッチをオフにし、契約が解除されれば、再びそれ以外の人に欲情するスイッチを入れる、などという器用なことが出来る人はいるのだろうか(もちろん、出来る人が存在する可能性を否定する訳ではない)。

 たといカップルを形成していようが、パートナー以外の、男性なら女性に、女性ならば男性に、同性が好きな人ならば同性に欲情するということは、当たり前にあるのではないか。むしろ、魅力を感じれば相手がだれであれ欲情するというのが先で、「カップル」などの契約関係を結ぶことで、性愛関係を意図的に制限するというのが、順番で言えば後なのではないだろうか。つまり、人々の、

「魅力を感じた相手に欲情する」

という性質を、「カップル」などという制度が不自然に縛りつけているということがあるのではないかということだ。

 もしそうだとすれば、冒頭の発言について、今の社会のルールという枠組みで見れば、宜しくないことと言うことが出来るのかもしれないが、だからといって、

「人間的に最低だ」

というような非難をするにはあたらないのではないかというような気がしている。そういった欲情は、「カップル」という制度などよりもよほど自然であると思うからだ。

 

 そもそも、何故そうやって不自然に性愛関係を制限する、

「カップル」

なるものが制度として生まれてきたのだろう。パートナー同士、他の人に欲情することはあるけれど、そこはグッとこらえて我慢をしてというように、何のためにお互いを制限し合っているのだろう。お互いがお互いを解放してあげた方が楽ではないだろうか。

 性愛関係は、妊娠や病気などのリスクが伴うから、バーっと解放していくのは宜しくないのだとしたら、ちゃんとそこのところのルールを守れば、別に性愛関係を縛らずにもっと開いていっても良いのではないだろうか。

 おそらく、不自然に性愛関係を制限する「カップル」という制度みたいなものが長らく力を持っているのにはそれなりの理由があるのだろう。きっと、性愛関係を開放していくことには何か不都合が潜んでいる(と勝手に決めている)のかもしれない。その不都合は何だろう。

 そこで一番に思い浮かぶ不都合は、やはり、それだけ性解放された社会で、結婚はどうしていくのだということになってくるだろうか。「カップル」という枠組みが、結婚をスムーズにしていくために編み出されたものなのだとしたら、案外「カップル」というものは馬鹿には出来ない。これはしばらく考えてみる価値がありそうだ。

 あと、思い浮かぶ不都合がもうひとつ、それは、

「性解放された社会では特別感が得られない」

という不都合だ。これはもちろん、パートナーを所有したい人達が感じる不都合である。

 性解放された社会では、

「あいつは俺のもの」

「あの人は私のもの」

というような特別感を感じにくいので、他人を所有したいと願う人達は、何がしかのもの足りなさを感じるかもしれない。もしかしたら、その、もの足りなさを埋めるために、「カップル」という枠組みが生まれたのかもしれない。

 しかし、性愛関係で「自分だけ」という特別感を得たいなどというのは、

「魅力的な人であれば誰であれ欲情してしまう」

という話よりも、よっぽど欲張りなような感じを受ける。

 本来、誰のものでもないひとりの人を、自分だけのものにして楽しみたいなどというのは、ひどく暴力的ではないだろうか。

 しかし先ほども言ったように、欲望を感じてしまうのは仕方がない面もあるので、他人を所有したい人達が、「カップル」という枠組みを作って、他人を所有できるようにした、という話も、素直な話だと言えばそうなのかもしれない。一概に悪いと言うことは出来ない。

 そうすると、性愛関係を完全に解放した社会でも、もの足りなさを感じる人はいるし、「カップル」という枠組みでギチギチに縛ってしまった社会でも窮屈を感じる人はいるのだから、何かそこのところの中間みたいなシステムを上手く模索出来れば良いのではないかと思うのだが、ちょっと今日は疲れたので、続きはまた今度書くことにする。