断続的な瞬間 ひとつの連なりという錯覚

 「人生とは、連続する点のようなもので、瞬間々々というのは断続的なものである」

というようなことが言われる。過去から未来へと向かって、ひとつの線が繋がっているのではなくて、断続するその瞬間ごとで、その都度人生は完結しているという考えだ。

 確かに、この感覚を理解することは出来る。しかし、現在にありながら、現在という瞬間の断続性を感じ取ることは出来ない。ある事象が過去になって初めて、

「ああ、瞬間々々というのは、断続的なものだったんだな・・・」

と認識することが出来る。

 例えば、

「居間から玄関への移動」

という行為ひとつ取っても、その最中は、瞬間々々を、連続するひとつの線のようなものだと認識、あるいは錯覚しており、その行為が自分にとって過去のこととなると、そこで初めて、

「居間にいた私」

と、

「玄関に辿り着いた私」

が、同じ人物でありながら、全くの別物だと認識することが出来るようになり、瞬間々々の断続性というものに、ようやっと気づけるということになる。

 そして、瞬間々々は断続的であるということを頭では分かっていながら、現在というところへ置かれているときにはそれに気づけず、瞬間々々はひと連なりなのだと錯覚してしまうのは、ある意味仕方のないことだというような気がしている。というより、そう錯覚していないと、日常生活が送れないということになるのではないだろうか。

 「居間から玄関に向かって歩いていく、その瞬間ごとに同じ人間は、別のものに変わって行っている」

ということを、現在というときに居ながら、はっきりと認識していたら、それこそ訳が分からなくなると思うのだ。