良し悪しで言えば「悪し」 悪しわろしで言えば「わろし」

 自己正当化欲求は耐えがたいほどに強い、ということは一昨日にも書いたのですが、私が今現在行っている自己正当化の最大のものは、

『溜まりに溜まった鬱憤を晴らすため、書くことを選んだのは、良し悪しで言えば「悪し」だが、悪しわろしで言えば「わろし」だろう』

というものです。

 つまり、親に対する恨みつらみを書き連ねて、自身の怒りを癒すという行為は、当然褒められたものではないけれど、吐き出す先を見失い、最悪のケースに至るよりはマシであろう、というような自己正当化を、今の今まで行い続けているのです。

 しかし、恨みつらみを書き連ねて、近い将来それが親に見つかった場合と、たとい鬱憤がひとりでに溜まっていこうが、どこにも吐き出す先を求めずに、自身の中だけで溜めこみ続けていく場合と、どちらがより悪い展開をもたらすのか(どちらが悪しで、どちらがわろしなのか)、ということは結果論でしかない訳ですから(書き連ねたものを見て、親が発狂する可能性はゼロとは言えないでしょう)、書くという行為が、

『悪しわろしで言えば「わろし」』

だなんてことは分かりようが無いのです。しかし、心のどこかで、というよりは心の大部分において、それはわろしであろうというような自己正当化を、何の根拠もなしに行っているのです。