違う場所として体感する

 例えば、ある公園に皆で遊びに行ったというときは、それぞれ感性や感覚の違いはあれども、そこを大体、

「同じ公園」

として体感するだろうと思う。

 しかしそれが、他人の家に遊びに行く、または自分の家に友達を招待するということになると、各々が同じ屋根の下に集まりながらも、そこを、

「違う場所」

として体感することになるだろう。つまり、自らの家に招待した側の人間は、その場所を、普段となんら変わらない、生活の為の場所として認識するだろうが、招待された側の人間は、その場所を、

「生活する場所とは違う何か異質な場所」

として認識することになるだろうという訳だ。

 「んなもん、公共の場である公園と、私有の場である家では、差があって当然じゃないか」

と思われるかもしれない。しかし私は、

「皆が同じ場所に集いながら、個人々々の立場に拠ってその場が全く違うものになってしまっている」

という体験が、なんとなくこう、くすぐったくて仕方が無かったのである。また、その違和感が、何だか可笑しくて、楽しくてしょうがなかったのだ。

 公園を皆が、

「同じ公園」

として認識するように、友達が私の家を、

「生活の場ではなく、訪れた場所」

として認識する感覚で、私も自身の家を、

「訪れた場所」

として認識し、友達との認識感覚を合わせたいと願っても、どうしても自宅は自宅としてしか、

「生活するための場所」

としてしか認識できない。

「いやいや、私にとってもここは、訪れた場所なのだ」

としてみる、無理な思い込みはすぐに破られる。これはなんとも不思議なことではないだろうか。